最近はほとんど見られなくなりましたが、昭和30年代初め頃までは、目を開けていられないことがありました。『東大和のよもやまばなし』が「赤っ風」として語ります。

赤っ風 2006年3月19日
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「赤っ風になっちゃうかな」
春先き強い西風が吹いてくると、村の人は気がかりでした。

大正の頃、桑や茶畑が続いていたこの辺は土が一寸も積り、草履(ぞうり)のまま上る始末で、
「神棚にごぼうの種がまける」
といわれるほど土ぼこりのひどい所でした。ローム層の砂土は軽く、少し風が吹いても舞い上がります。人々はこの土地を
「吹っ飛び田地」(でんじ)
と呼んでおりました。

市街地を覆う赤っ風
2006年3月19日
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とくに、春先の風には悩まされたものです。空気が乾いている時期ですから、強い季節風が吹いてくると土埃で空がまっ赤になり、それはたまりません。あたりは何も見えなくなってしまいました。この風を「赤っ風」というのです。

赤っ風が吹く時、つむじ風も起りました。畑でつむじ風に出合うこともありますが、その時は地面にかじりつくようにして、風が過ぎるのを待つのです。

ところで、この赤っ風を心待ちにしている人たちがいました。畳二畳分の大凧を上げようというのです。待望の赤っ風が吹いてくると、凧を原に運び、大人三人がかりで上げます。藤つるを張った凧は風の中でよく捻り、見物人も集ってきて、お互い埃の中で凧上げを楽しみました。

昭和13年(1938)の東大和市の様子。狭山丘陵の麓以南は全て畑でした。
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また風の吹いたあとの畑で、矢の根石(石のやじり)がよく見つかりました。時代の違う珍らしい石がたくさん集められたものです。
静かだった村は町になり、家が建ち畑が少なくなってきました。しかし、春一番の吹く頃はやはり土埃がひどく、一面まっ黄色になります。(『東大和のよもやまばなし』 p57~58)

住宅が密集している東大和市の平地部分は、江戸時代に拓かれた地域です。集落は狭山丘陵の大きな谷ッと丘陵の麓につくられていました。南に広がる地域には縄文人が狩りをした茨が茂る一面の原野がそのままの姿でありました。

モニュメント赤っ風
玉川上水駅北口駅広にあります。(クリックで大)

江戸時代に入り、1653(承応2)年に玉川上水、1655(承応4)年に野火止用水が完成しました。これを機に、村人達は一斉に南に向かって原野を開墾しました。おおむね1600年代末には野火止用水までを開墾し尽くして畑としました。

開墾した所は表面に僅かに黒土がおおっていましたが、すぐ下は赤土でした。それが季節風に吹かれて舞い上がったのです。生産力は低く、「下下畑」と位置づけられ、時には「野畑」「林畑」と呼ばれて、堆肥肥料を生産するところでもありました。昭和の初めにも、弁当を食べるのに手で覆いながらようよう食べたと云うこと、苦労したそうです。

玉川上水駅の北口駅広西端、交番と階段の間に、モニュメント「赤っ風」 があります。
(2016.12.18.記)

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