江戸時代も末、東大和市の農業の実態です。
 蔵敷村に残された里正日誌によって少し分かってきました。

 天明年間(1751~88)の天災~不作~飢饉は有名ですが、文化、文政期にもそれは続き、農村は疲弊しました。
 文政4年(1821)9月、蔵敷村では前年からの天候不順に作物が育たず、年貢減免のための猛運動を展開しました。
 その時の作物の状況が「蔵敷村草損御見分書上帳」に残されています。

(クリックで大 東大和市史p201)

 水田が少なく、狭山丘陵の南はほとんどが畑作でした。
 それでも、陸稲があるのではと推測していましたが、ご覧の通りです。
 稗、粟、芋が中心で陸稲(岡穂)の作付け稗の三分の一程度です。
 これでは、村人達は米を口にすることがほとんど出来なかったことがわかります。

 しかも、年貢は現物で納められず、金納でした。同じ年、後ヶ谷村の村明細が残されています。
 「古来より困窮村にて、近くの山で薪をつくり、炭を焼いて、時には青梅、八王子、五日市、飯能方面に薪や炭を買い求めに行き、一晩中歩いて江戸のお屋敷に納めています」と駄賃稼ぎを訴えています。
 新田畑に肥料を買って貴重な収入をつぎ込む、その上年貢までお金で納める二重苦とは・・・!!

 表のように、主食の生産が天災で皆無となり、ついに、蔵敷村では、翌・文政5年(1822)、78人の飢人が発生します。
 減免どころではなく、稗12石余を借り入れて、ようよう飢えを凌いでいます。

 (2017.05.29.記)

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