村山下貯水池(中堰堤から)
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 村山貯水池が建設される前の話です。湖底には162戸の家があり、古くからの集落を形成していました。
 画像の上方、左から二番目の凹凸の辺りに「内堀」があり、今回の主人公の舞台・内堀の店がありました。
 

湖底に沈んだ村と勝っあんの寄った店(クリックで大)

 
 湖底に沈んだ地域と狭山丘陵の南麓とは生活圏を共にしていました。また、北麓の地域とも深い交流がありました。特に所沢で六の日毎に開かれる「市」は村人達にとって大きな関心事でした。そればかりでなく、村の商店にとっては、仕入れ先でもありました。大正の初め頃(1915年代)ここを往復した実直な馬方が「勝っあん」です。
 

東大和市立奈良橋市民センター前庭の馬方勝っあん(クリックで大)

 『東大和のよもやまばなし』の語りをお聞き下さい。

「今はもう湖底に沈んでしまった内堀部落に、レンゲ、タンポポが、春がすみの中に咲いていたころのお話しです。

  この村に中藤村(武蔵村山市)から、お酒の好きな五十歳前後の体格のよい馬方さんが、配達の仕事で来ていました。

当時村の人々は、「馬方勝っあん」と呼んでいました。

 
 
 
 
 
 
 
 

勝っあんの通ったルート (クリックで大)

  勝っあんの家は、芋窪村と中藤村境の東の「とっつき」旧青梅街道の北側にあり、通称「中藤の大橋」にありました。

 朝早く家から、馬車を引き出し、得意先々の店により、注文の品物を聞き、所沢の問屋まで仕入れに行き、配達して賃金をもらう毎日でした。

 勝っあんはよく働く人で所沢まで往復八里(十六キロメートル)もあるのに、夕方までに注文の品を届けるので、商店の主人達に重宝がられておりました。

 勝っあんは、「内堀の店で好きな酒をゆっくり飲む。これが何よりの楽しみで働くのだ」とよく言っていたそうです。

  「内堀の店」と言うのは、内堀村、西隣り、荒ヶ谷戸、東隣り、杉本、林、中田、の数十軒の民家を相手に、関下○○さんという人が経営していました。雑貨、荒物、酒、タバコ、米、麦等生活に必要な品を揃えていた大きな商店でした。

勝っあん馬

 いつものように勝っあんが、「一杯飲んでいくべい」というと馬の足は自然と「内堀の店」の前で止りました。

  勝っあんが、中で陽気に飲んでいても、馬はおとなしく外で待っていました。お酒の好きな勝っあんは、ついつい飲みすぎてしまい、酔っぱらってしまうこともありました。そんな時、店の主人は馬に、「お前、勝っあんを家まで送っておくれ」とたのむと、馬はわかった様子で、勝っあんが落ちないようにゆっくり歩き出しました。

 いい機嫌に酔った勝っあんが、たずなを手に持ち、「かわいいばあさん乗せて、東京へ行ってみてえ」と歌いながら馬車にゆられて、庚申坂を登って行く姿を見たものだ。と内堀村の長老、内堀小十郎さんは当時を思い出しながら、なつかしそうに話してくれました。

 勝っあんの通った道は、現在の奈良橋八幡神社東側の道を登ると、村山貯水池周囲道路につき当ります。その真向いの道です。進行防止の鉄線がはられていますが、その道をしばらく行くと、急坂になりその辺から水辺になります。昔はこの坂を下った所に、庚申様が祀ってあって、内堀村の人々は「庚申坂」といっておりました。」(『東大和のよもやまばなし』p118~120)

八幡神社の東脇を通って画像のフェンスの道に入った

 勝っあんが「かわいいばあさん乗せて、東京へ行ってみてえ」と遙か遠かった東京はグン―と近くなりました。

 勝っあんがあこがれた東京からは、たくさんの人々が移住してきて、東大和の住民になりました。一方で、交流のルートは変わり、馬も勝っあんの仕事もなくなりました。

 でも、勝っあんが通った道は今もフェンスの向こうに残されています。貴重な緑がいつまでも残り、この話が語り継げられるように願っているかのようです。

 (2017.07.02.記)54
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 内堀の里