塩釜神社全景 神社右側は講中の受付所、絵馬堂
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 高木神社の東側に塩釜神社がまつられています。安産の守り神・「高木のシオガマ様」と市外からも多くの方々に頼りにされてきました。

昭和の末までは、お腹の大きくなった娘さんのために、仲人さんと親御さんがお守りを頼みに来たり、子供を抱いた若い夫婦と家族がニコニコ顔でお礼のお参りをする姿がよく見られました。

受付、絵馬堂 現在は常駐せず、お札請け所の案内板が掲げられている
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この塩釜様、現在地に来られる前にいろいろな経過がありました。まず、『狭山之栞』が 「明治十丁丑(ひのとうし、ていちゅう)年四月十日尉殿神社の隣に塩釜神社を勧請す」と記します。現在地への勧請は明治10(1877)年とわかります。

その時の経緯です。『東大和市史資料編8信仰の姿と造形』が次のように伝えます。

「当社の総本社は宮城県の塩釜市にあり、祭神を塩釜神と称するもので、当社はその分社にあたる。・・・、江戸末期から明治時代の初期にかけて、高木村の尾崎金左衛門という人物の土地に屋敷神として祀っていたものの、明治になると金左衛門は「一軒の家には、長い間に栄枯盛衰があり、後の世までお祀りできるかどうかわからぬ。」と考えて、屋敷神を高木神社の境内に移した。」(p25~27)としています。

 次いで、屋敷神としてまつられるまでの経緯です。『東大和市史資料編9道と地名と人のくらし』は

安産祈願の絵馬と講中の札
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 「お産は女の大厄といわれ、難産で母子共に亡くなったり、乳児の死亡など多く、出産は家の心配事でもあった。尾崎金左衛門はその事に心を痛め、遠路はるばる総本社のある陸前国(宮城県)の塩釜まで旅をして、塩釜神社の護符を頂いて来て、屋敷神として祀ったのが始まりである。

その旅には蔵敷の小嶋蔵之助さんの先祖も同行されたと、小嶋家にいい伝えられているそうである。享保二十年(一七三五)のころという。」(p102~103)

として、塩釜神社勧請の時期を享保20年(1735)の頃としています。

 この時期、江戸では飢饉が続く中で、武蔵野の新田開発も進み、検地が行われ、村の基盤が造られつつありました。安定した家族構成に安産は何よりの願いであったことがしのばれます。高木神社の隣にまつられてから、塩釜神社は高木村だけではなく、一挙に近隣の村人たちに頼りにされるようになりました。安産祈願が中心でしたが、そればけりではなく、火伏の神様としても信仰されたようです。福生市史は

国幣中社塩竈神社分社の碑

「東大和市の高木神社境内に鎮座する塩釜神社は、安産と火伏の神様なので、女性から信仰され、昔から講が続いている。女性中心で、長沢・永田・加美の三地区で一一二軒が講に加入している。」(上巻p1085)とします。

村に産院やお医者様がなかった頃です。周辺各地から参詣と祈願がなされ、一時期は40を超す講が形成されたとされます。

一般の安産祈願では、社殿でお祈りがされ、その後、掛け軸やお守り札、灯明に使った短いろうそく、お饌米、麻ひもなどを受け取り、産室に供えて、無事の安産、無病息災、成長を祈りました。

 医療機関の整った現在、社前にたつと、大正15年(1926)3月建立の国幣中社塩竈神社分社の碑が変わらずお守りをするかのように迎えています。 講については別に記します。

(2017.08.13.記)

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