貞治七年(1368)は河越氏が時の幕府、関東管領上杉憲顕に反乱を起こし、武蔵に平一揆と呼ばれる戦乱が起きた年です。河越氏は上杉軍に攻められ、河越館で落城の憂き目に遭いました。それに加わった山口氏の高清が自害を遂げたと伝えられます。
この時、山口氏に隣接する東大和市域では何が起こったのか?
郷土史を学ぶ者にとって猛烈な関心事です。たった一つ、この年を語る物証の板碑がありました。

『新編武蔵風土記稿』は、
「古碑 一基 長二尺余、貞治七戊申四月十九日」と記し
『狭山之栞』は「(嶺松庵・霊性庵に)
「左図の如き古碑存す」として図を掲載します。

狭山之栞掲載図
右側が貞治七年板碑
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年代から、山口氏とともに戦ったことも推定されます。また、1368年の年号は南朝が正平23年、北朝が応安元年を使います。にもかかわらず、宅部ではこの年になっても「貞治7年」の北朝年号を使用しています。意図的なのか否か、興味津々です。

貞治7年頃の狭山丘陵一帯の郷村推定
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霊性庵は東大和市狭山の狭山神社北側に位置します。ということから、この人物は狭山丘陵南麓の後ヶ谷地域の人物ではないかと考えられます。ですが不明です。
もっと仕方がないのが、この板碑、現在のところ、どこに行ったのか行方がわかりません。がっかりです。

この記事をお読みの方にお願いです。所在が明らかであったら、是非お教え頂きたく、お願い致します。

(2017.08.23.記)

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