玉川上水・野火止用水の開削

 承応3年(1654)玉川上水が開削され、次いで、翌承応4年(1655)野火止用水が開削されました。茫漠たる武蔵野の原野に一路の水路が通りました。これを待ち受けていたように、翌年の明暦2年(1656) 、岸村(武蔵村山市)の小川九郎兵衛が行動を開始しました。

玉川上水・野火止用水開削、小川村の成立、東大和市域の村人達の新田開発の関係図
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 その素早さと共に、知恵を働かせたことに驚きです。幕府に対し、難儀を極めていた石灰輸送に役立ちたいとの申し出をしたのです。
 当時、江戸市中の整備が進み、大量の石灰を必要としていました。青梅の成木から切り出された石灰の輸送が急務でした。その道は箱根ヶ崎から田無まで無人の武蔵野の曠野の中を水場もなく日陰もなく、ただ一路走っていました。

 九郎兵衛氏はその難儀を解消するため、中間に継立場を設け、宿を開きたいと願い出ました。願いは認められ、開発に苦労は伴いましたが、新田開発による小川村が成立しました。

 この動きを狭山丘陵の麓から見ていた、東大和市域の村人たちも動き始めました。野火止用水に向かっての荒野の開墾です。原野であるだけに、その開発は並大抵のものではなかったと推測されます。しかし、ものすごいエネルギーで、おおむね20年後の延宝期(1673~80)には、野火止用水際まで開発を終わらせたと考えられます。こうしてできあがったのが、ほぼ、現在の東大和市域です。

細長い村の成立

 当時の村人たちは狭山丘陵の麓を親村として、少しずつ南面に広がる原野を開拓しました。切り添え、持ち添えと呼ばれる方法です。残された検地帳からは、ともかく野火止用水に向かって切り開き、やっかいなお互いの隣接地は後で調整しながら進めて行った様子がうかがえます。

境界の入り組んだ縦に長い村々、狭山丘陵南麓から、玉川上水駅、東大和市駅周辺までを区域とします。
生産力が低く、飢饉に苦しみます。
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 その結果、できあがったのが猛烈に境界の入り込む、南北に細長い村々です。後に政争の激しい独立心の強い村と評されますが、その遠因はこの開発過程にありそうです。この時点で、ほとんど現在の市域が開発されました。

 武蔵野新田開発の奨励高札が日本橋に張り出されたのは享保7年(1722)でした。それに先立つこと約50年前、村人達は概ね開発を終わらせていたことになります。ただし、赤土の上に薄い黒土で生産力は極めて低く、新田とはいえ水田はなく、畑作でした。
(2017.08.25.記)

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