村山下貯水池に沈んだ内堀の旧地位置 
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内堀の集落が村山貯水池に沈んで90年になります。その集落の様子を『東大和のよもやま話』が手際よくまとめています。

「多摩湖に沈んだ部落の中に「内堀」と呼ばれる三十八戸ほどの部落がありました。
北と南には松林の多い小高い山があり、部落の中央あたりに火の見やぐらがありました。その上にのぼると、部落はまるで箱庭のように一目に見渡せました。

春先は水のない田んぼにれんげの花が咲きみだれ、まるでじゅうたんを敷きつめたようで、子供達はその上で遊んだり、寝っころがって流れる雲を見上げ夢をふくらませたりしたものでした。
秋はどこの家にも柿の実がたわわになっていました。山は松の緑に紅葉が映えて、古巣に帰るカラスが「カアー、カアー」とのんびり飛んでいくのどかな谷戸の風景でした。

ほぼ中央を流れていた宅部川
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部落を北と南に分けるように、宅部川が西から東へと流れていました。部落の一番上の橋のそばに堰がもうけられたことから、この橋を「堰の橋」このあたりを「堰場」と人びとは呼んでいました。

この堰は、春の田植え時に川をせき止めて大量の水を貯え、右と左に小さい取入れ口の堀を造り、必要に応じて北と南の田んぼに水を送り出すのが目的で造られたものでした。

毎年田植えが近づくと、村中総出で堰ぶしんが行なわれました。川の中に丸太を積み上げ杭を打ち、積み上げた丸太と丸太の間に石や砂利をつめ込んで水を堰き止めるのです。一日中かかったこの大仕事も、夕日が空を赤くそめる頃にはようやく完成するのでした。
女衆が用意した手打ちのうどんや、酒や肴のご馳走で大さわぎとなり、昼間の苦労もふきとんでしまいました。これが又部落中の楽しみでもあったようです。

つぎはできあがった堰の管理です。堰場近くの農家の人が「田廻り」と言って、左右の堰がくずれ落ちないように毎日見廻りをしたものでした。この家のことを「堰場」と呼ぶ程部落にとっては大切な場所だったのです。

内堀集落の状況 大正5年(1915)の状況を復元 クリックで大

又この堰が「両口の堰」のため、取入れ口をあけた時などちょうどお母さんのお乳のように、右と左に水がほとばしり出るように見えたところから、「女堰」とか「乳神様」とか言うようになったようです。

そのうち「産後、乳不足の母親が女堰の水を呑むと乳の出が良くなる」との言い伝えが村から村へと伝って、わざわざ遠くの方からも女堰の水を頂きにくる人もあったようです。ご利益があった女の人達は、お礼に五色糸や五色の紙、又は絵馬を奉納しました。

五色糸や五色の紙の方が時代が古く、この場合雨乞いの神「五竜王」が祀られていたのではないかという説もあります。絵馬は所沢から買ってきたようでした。

堰神様のご神体については「堰場の土手の草むらの中に大山阿夫利神社(雨乞いの神)と刻んだ五十センチメートルほどの石神様があったよ」と言う古老もあり又「堰神様のご神体は全く見たことがない」と言う人もいます。

内堀部落で子供時代を過ごされた人の話では「堰場には明治の頃植えた柳の木が一本あり、その枝に絵馬が沢山吊してあるのを見た記憶がある」と話されました。又「篠竹の先に白い紙をつけたものが上っていたような気がする」と話す人もいます。」(『東大和のよもやまばなし』p23~25)

ほとんどがよもやま話で語られていますので、全文を引用しました。
(2017.09.22.記)

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