中世、東大和市にはどのような人々が活躍したのでしょうか?

 その一人に宅部美作入道貞阿がいます。普済寺版経典(1368年)に名が記されている人物です。

宅部郷(上宅部・東大和市域、下宅部・東村山市域)
クリックで大

  中世になると、仏教の経典はこれまでの書き写し中心から木版摺りが普及して、出版されるようになったとされます。東大和市周辺では、立川の普済寺でお経の印刷が行われ刊行されました。貞治2年(1363)から応永7年(1400)にかけてのことと考えられています。
 その中に、宅部美作入道貞阿の名が記されています。『多摩のあゆみ118巻』(p38)に渋江芳浩氏が次のように記されています。
 「まず応安元年(一三六八)刊、日蔵経巻八の「宅部美作入道貞阿」を挙げておこう。宅部というのは現在の東大和市から東村山市にかけての広い一帯を指す。東村山市野口町の正福寺地蔵堂の応永一四年(一四〇七)墨書銘には「武州宅部郷金剛山正福寺」とあり、南北朝~室町初期には宅部郷と呼ばれていたらしい。美作入道貞阿はこの宅部郷の領主とみられ、さきに触れた応永二四年(一四一七)立川文書の「宅部下総入道」と同族とすれば、その父あるいは祖父の世代にあたるだろう。
 別に「高木二郎左衛門入道光阿」なる人物がおり、この名字の地が現東大和市の高木であるとすれば、彼も宅部近隣の領主と思われる。」
と、宅部美作入道の名が出てきます。この名について、東大和市内では三光院の寺伝に
 ・開山となった快光法印は延文二年(1357)六月一日に入寂。
 ・開基の石井美作が延文四年(1359)に没。
 とあり(『東大和市史資料編8』p48)、宅部と石井(いわい)と名字が異なりますが、関係する人物として偲ばれます。
 宅部は現在の村山下貯水池の一部から東村山駅に達する広域の地域でした。
 従って、普済寺版出版の助縁者「宅部美作入道貞阿」を石井美作の後継者とは断定できません。
 しかし、推定することは十分に考えられます。それは
・石井は三光院の開基であるとともに
・『狭山之栞』に、建保二(1214)年銘の氷川神社棟札が紹介され、大旦那として「石井美作守」の名が記されている

 など宅部地域に長い間実力を持って活動した人物であることによります。

狭山之栞 氷川明神者棟札
クリックで大

  なお、石井は、「小田原北条から徳川への改革事務一切」を処理(『代々のかがみ』)したとする杉本家の先祖にあたります。
 確とした現物がありませんが、東大和市の中世を考える資料として紹介します。
(2017.10.05.記)