東京瓦斯電気工業(株)、日立航空機(株)立川工場の基本施設が変電所でした。工場の近くまで高圧線で運ばれてきた高圧電流を低圧に変電して工場内に配電する施設です。
 昭和20年(1945)2月17日および4月19日、24日の米軍機による工場爆撃で廃墟となった工場跡に奇跡的に残りました。その爆撃の弾痕の跡を生々しく伝えます。貴重な戦災遺跡として東大和指定文化財「市史跡」として指定されています。

 変電所の2017年現在の現状を紹介します。画像は全てクリックすると大きくなります。

正面(南側)

 正面(南面)からの全景 全面の円形に見える区域は「平和広場」と名付けられています。
 東大和市はその理由を次のように説明しています。
 「広場(桜が丘2-167-3)を、平和の大切さを後世に伝える地域として「平和広場」(通称名)と命名しました。 
 これは、旧変電所施設を含めこの地域が戦争の傷跡を今に残す貴重な場所であり、二度と悲惨な戦争を起こさないようにとの願いを込めて呼ぶこととしたものです。」
 南面には昭和20年2月17日、4月19日、24日の米軍機による爆撃痕が全面にわたり残されています。

表階段付近の弾痕

 いくつかの箇所で壁を貫通しています。画像左下の部分では貫通痕から空が見えます。
 南面の入り口左側付近の弾痕 集中して爆撃を受け、内部に貫通しています。

 貫通痕は二階への階段部の手すりを削り壁面に達し鉄骨をあらわにしています。

正面からの右側(東面)

東面(正面から右側)全景

 

 爆撃されたのが主に南方向からであったため、東面には窓際と屋根付近に数個の爆撃痕が残されています。

正面から左側(西側)

西側全景

 画像左側にあるのは復元された変電施設の外部との分離をした防護壁の一部です。

西面には数カ所の爆撃痕が残ります。

 防護壁にも攻撃が加えられていましたが、貫通はしていないようです。

 保存のため、下部に台を設けているため設置当初よりは高くなっています。

裏面(北側)

 北側に受電施設があり、一部が防護壁で防護されていました。現在は撤去されています。
 工場で働いていた方からは北側からも爆撃されたとの話が伝えられます。
 受電施設があったことからか、南側ほどではなく、建物全面にわたって数発の弾痕が確認されます。
 北側には受電施設がありました。現在は撤去されて見ることが出来ません。
 防護壁の説明版に撤去時の図が添付され、受電施設と防護壁との関係がよくわかります。
 受電施設の画像は工場設立当初の状況ではなく、戦後の小松ゼノアの時代に使われていたものです。
 各外壁に残された弾痕跡の詳細は東大和・戦災変電所を保存する会編『戦災変電所の奇跡』p80~81に掲載されています。

   (2017.12.03.記)

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