通船の過程で、やがて、東大和市として大きな影響を受ける村山貯水池建設の要因ともなる東京の水不足を伝える出来事が見えてきました。

分水口の改正

玉川上水は江戸市中への飲料水の供給と共に武蔵野の新田開発をした各地へ飲料水や田用水を分水して地域の生活、生産の基盤となっていました。

 分水には分水口が設けられ、最初は数カ所であったものが、30数カ所に増加しました。一定の管理がされていましたが、水需要が増えると共に「隠し水」として不正に利用される問題が出てきました。

 新政府はこの対応に迫られたのでしょう。また、数多くの分水口があることは通船に支障になった事もあり、通船の事業と併せるかのように分水口の改正が行われました。

すっかり景観が変わっている現在の砂川分水口
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 通船は次の経過を経て実施に到ります。

明治2年(1869)9月「玉川上水船筏通行願」提出
明治2年10月28日「玉川上水路通船御開之義達」で通船許可
明治2年10月、上水両縁の切り広げ工事調査
明治3年(1870)3月11日から5日間工事施工
明治3年3月22日、舟溜の設置許可
 明治3415日、試運航
  明治3528日、通船開始

 このような経過の中、明治3528日(通船開始と同日)、新政府の玉川上水管理担当(土木司)係官が出張してきて、小川橋に、玉川上水に関係する30ヵ村の代表者が集められました。

分水口の集約

政府からの申し渡しは次のように厳しいものでした。

 ①今般、これまでの分水口を廃止して、新規に水堀を堀割る
 ②飲み水は100人につき三坪(一坪は一寸四方)、田用水100坪以上はこれまで通り
 ③田用水100坪以下はこれまでの三歩の水量に一割増加する(この箇所は調査中です)
 ④新規水堀が出来た後は、洩水があったら処罰する

 「壱日は壱日、十日は十日之皆水留申付候条・・・」
 洩水が、一日あったら一日、十日あったら十日間、分水を全て止める。いささかでも不都合があればきっと咎める。(農民側から差し出された請書 小川家文書)

 出席者はこの条件を承知したと約束して印を押しました。脅かしめいて厭なところもありますが、よほど切実であったことが考えられます。

 結果、羽村の取り入れ口から見て右岸では20箇所あった分水口が11箇所になりました。左側では14箇所が6箇所に統合されました。

 東大和市周辺では野火止用水の分水口から、小川、大沼田、野中、田無、鈴木、関野、千川に至る間が野火止用水の分水口にまとめられました。新しく用水堀が掘られ、その水路から各地へ分水されることに変わりました。

 新しく掘られた用水堀は「新堀用水」(しんぼりようすい)、「北側新井筋」(きたがわあらいすじ)と呼ばれ、取水口から約900メートルが胎内堀(たぬきぼり)の地下水路になりました。残念ですが現地はすっかり変わって次の画像の状況です。

現在の取水口(分水口)小平監視所沈砂池と接合井
 羽村の堰から取り入れられて玉川上水を経て送られてきた多摩川の原水は東村山浄水所と小川分水に分かれる
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 胎内堀の「新堀用水」は途中に竪穴が掘られました。現在いくつかのものがマンホールや鉄柵に囲まれて保存されていて、その跡を辿れます。

説明されなければ見逃してしまう「北側新井筋」の竪穴跡 右が玉川上水
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小平監視所から約900メートルほど東寄りに小平市の小川分水と新田開発の説明版があり、その近くから胎内堀は終わり掘りに分水の水が見られます。
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小平市の説明板 小川分水と新田開発 分水口の位置の変更が示され参考になります。
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分水口の改正の意義

この分水口改正は「隠し水」対応とされます。当然、「通船」対応であったはずです。しかし、先に紹介した請け書の
「洩水が、一日あったら一日、十日あったら十日間、分水を全て止める。いささかでも不都合があればきっと咎める」
処罰条項からすると、途中からの無断分水、利用があったことが伺え、同時に東京の水事情に相当の緊迫感が生じつつあったのではないかと想像します。

 村山貯水池建設の遠因はすでに、明治の初めのこの時期に生じていたと考えます。

今回紹介の文書は小平市小川家に残されていました。『古文書に見る小平の水 玉川上水と分水』(p105)に記載されています。原文は読みにくいので意訳しました。

(2017.12.11.記)