霊性庵の石造物2(正面石段上)

正面石段を登って左側の石造物
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正面石段上の石造物

正面石段を登ると左側に石造物がまつられれています。左側から

大日如来石碑 六十六部廻国供養塔1 六十六部廻国供養塔2 地蔵菩薩像 双体(双立)地蔵菩薩像です。

いずれも、狭山村の各地にまつられていたものが、この地に移されました。

大日如来石碑(弘化5年・1848)

大日如来石碑
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大日如来浮彫
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正面
書院窓型の中に金剛界大日像(浮彫)
大日如来
右側面 弘化五申年二月吉祥日
左側面 願主 二見八良右エ門
台座正面 惣邑中(総村中)

六十六部廻国供養塔1(天明5年・1785)

六十六部廻国供養塔
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正面
天下太平 天明五乙巳天武州多摩郡後谷邑
奉納 大乗妙典六十六部日本廻国供養塔
国土安穏 十一月吉日 願主 間野門十郎

六十六部廻国供養塔2(享保12年・1727)

六十六部廻国供養塔2(享保12年・1727)
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正面
享保十二年丁未年 武州多摩郡後谷村
奉納 大乗妙典六十六部日本回国供養塔
八月吉辰 願主柚木茂左衛門

左側 石塔代 寒念仏講中十二人

地蔵菩薩像(嘉永4年・1851)

地蔵菩薩像(嘉永4年・1851)
2003年10月20日撮影
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2018年3月13日撮影
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正面
嘉永四年
地蔵尊(右手錫杖 左手宝珠
亥正月二四日

左側面
施主 二見□□

双体(双立)地蔵菩薩像(嘉永7年・1854)

双体(双立)地蔵菩薩像(嘉永7年・1854)
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正面
嘉永七年甲寅年
地蔵大菩薩(合掌形双立)
四月十六日
左側面 施主 町田庄左エ門

この場所にある石造物の造立年代は非常に特徴があります。一部を紹介します。

六十六部廻国供養塔1の建立された天明5年(1785)は次のような状況の中間年です。
・天明3年(1783)、冷害のため諸国で凶作が続き、狭山丘陵周辺の村々では飢え人のため代官所に夫食の拝借願いを出す。
・天明4年(1784)、狭山丘陵南麓で「天明の打ち壊し」が発生し、2~3万人の村人達が現在の武蔵村山市、東大和市域で打ち壊しが行われました。

大日如来石碑(弘化5年・1848) 地蔵菩薩像(嘉永4年・1851)双体(双立)地蔵菩薩像(嘉永7年・1854)の建立された時期は異国船渡来の大騒ぎの最中でした。
・弘化2年(1845)、イギリス船が琉球に来航、通商を要求
・弘化4年(1847)、幕府江戸湾警備の体制強化
・弘化5年(1848)、東大和周辺を納めていた代官江川太郎左衛門が佐賀藩主鍋島直正と会談、台場の築造や大砲の製造などについて話し合う。
・嘉永2年(1849)、代官江川太郎左衛門が農兵設置の建白書提出
・嘉永4年(1851)、代官江川役所の役人が狭山丘陵の幕府御用林の検分に来る
・嘉永6年(1853)、ペリーが艦船を引き連れ浦賀に現れ、修好通商を要求
幕府府御用林から松材を切り出し、品川沖の台場の基礎とする
・嘉永7年(1854)、村に、代官から「異国船渡来につき取り締まり強化」の触れが出される
・安政2年(1855)、後ヶ谷村(現・東大和市狭山)の神明宮の大欅を代官を通じて御用船の用材に徴用

村人達はどのような思いで石造物を造立したのでしょうか。

(2018.03.19.記)

霊性庵には多くの石造物があります。所在場所別にご案内します。文字をクリックすると記事が出ます。

神社と寺院

霊性庵の石造物1 正面石段付近の石造物
霊性庵の石造物3(観音堂北側)
霊性庵の石造物4 墓地右奥

 

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