戸籍の編製と戸籍区(韮山一ノ区など)

 明治4年(1871)4月5日、明治政府は「府藩県一般戸籍ノ法」を公布しました。いわゆる明治の壬申(じんしん)「戸籍」です。
 これまでの宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)よる村人の状況把握をやめて、家を単位にして住んで居る場所を基本として「戸籍」を作成するものです。
 そして、戸籍編成のために新しく「戸籍区」を設け、その管轄者として戸長・副戸長を置くことになりました。東大和市域の村々が属する、韮山県と品川県では、これまで紹介してきた「寄場組合」と「番組」をそのまま「戸籍区」として利用しました。

明治の戸籍

里正日誌には
「5月、韮山県から従前の組合を第何区とし、正副戸長を置き、戸籍一切の事務を取り扱うことになった」(12巻p97)と記されています。
この結果、

・蔵敷村・奈良橋村・後ケ谷村・宅部村・高木村の属していた小川村寄場組合は「韮山県一ノ区」
・芋窪村の属していた拝島村寄場組合は「韮山県六ノ区」
・清水村の属していた品川県十五番組は「品川県第十五区」
となりました。

明治の戸籍 蔵敷地区屋敷番号図の一部
 当時の書き方として南が上のため、回転しないと現状とは合致しない。
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 戸籍は「第何番屋敷」と各戸ごとに番号を付けています。
 「7月9日制定 韮山県第一区蔵敷村
  一番屋敷 内野杢左衛門
  二番屋敷 ・・・

 右の通り定め、表入り口の柱へ釘付けいたし候」
と屋敷に番号が付され、外部からもわかるようにしたようです。

 戸籍は
 文政6年・・・出生 名主、戸長 内野杢左衛門
 寛政7年・・・   母     ○ ○
 天保元年・・・    妻     ○ ○
と家族全員が記されています。

 明治5年(1872)11月には「戸籍成功」とあり、完成したことが辿れます。

韮山一ノ区、六ノ区、品川第15区

この戸籍編製のための「韮山県一ノ区」では
 戸 長 小川弥次郎、内野杢左衛門(蔵敷村)
 副戸長 小川弥一郎、宮鍋庄兵衛(高木村) 
が選ばれ、戸籍の編製にあたりました。東大和市域の村々は次のように区分されました。

戸籍法施行による区割り 
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 各村には江戸時代からの村役である名主、年寄、組頭、百姓代などが村の仕事をこなし、その上に戸籍法による戸長、副戸長が居て戸籍編製の指揮を執るという複雑な構造が続きます。村役は明治5年(1872)に廃止されます。

 なお、戸籍区は廃藩置県により
・「韮山県一ノ区」「韮山県六ノ区」は明治4年(1871)12月20日、神奈川県
・「品川第15区」は明治5年1月25日、神奈川県
 になりました。神奈川県はこれらを整理して、東大和市域の村々は

・蔵敷、奈良橋、高木、宅部、後ヶ谷、清水村が「神奈川県50区」
・芋窪村が「神奈川県51区」
 となりました。次に続けます。

(2018.09.25.記)