江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)

 今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。

最初の江戸街道(現・新青梅街道)古代中世は縦の広域道路が中心でしたが、初めて横断する道筋が出来ました。
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 東大和市周辺には、狭山丘陵の中程を越し、原を斜めに、八王子方面へと向かう中世の道がありました。八王子道と呼ばれます。狭山丘陵の東の端には古代からの道が中世には小田原方面に達し、小田原道と呼ばれていました。

 慶長8年(1603)2月12日、家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開くことを決めました。諸大名の江戸勤務が本格化し、江戸市街の拡張工事が開始されます。慶長9年(1604)2月、幕府は東海・東山・北陸など後の五街道の整備に入り、日本橋をその里程の起点としました。

 この時、東大和市域と関係の深い道はまだ出来ないで、時期が少しずれたようです。資料を遡ると、慶長11年(1606)11月、幕府から、年寄衆本多佐渡守正信と大久保相模守忠隣を通じて、八王子に配属された代官頭大久保石見守長安に石灰供出の命令書が出されています。   

初期江戸街道想定図 クリックで大

「江戸城工事のため、御用白土(石灰)を上成木・北小曽木村、山根より取寄せる。御急の事であるので、三田領・加治領、御領・私領、道中筋より助馬を出し、滞りなく石灰を送ってくるように申しつける。駄荷の運送や轡を取って稼ぐ者、喪に服する者があれば堅く出さないようにせよ」

 大久保代官は同じ11月、この命令を高麗郡上成木村、多摩郡北小曽木村(成木八丁目)の「白土焼」をする窯主に伝達しました。こうして、焼かれた石灰を江戸へ運ぶ道ができました。道筋はいくつか想定されますが、その一つが青梅街道でした。

 最初は狭山丘陵の南麓の村々を結ぶ「村山道」が使われたとも想定されますが、坂を含む曲がりくねった道では適さず、武蔵野の原野の中に一本の道を造ったようです。それが、現在の新青梅街道・奈良橋の庚申塚を通る道です。

庚申塔 寛政29年(1797)建立
 台石の正面に「東 江戸道」、同左側面に「北くわんおん道」、同右側面に「南府中道 西右中藤 左 青梅」とあります。
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 東大和市域ではこの道を「江戸街道」と呼んでいました。芋窪先から奈良橋の庚申塚を経て、東京街道団地の北側を通り、久米川に出て、田無の橋場に向かう道です。ただし、奈良橋庚申塚にまつられた、道中安全を祈願し、道しるべとしての馬頭観音の建立は享保16年(1731)、庚申塔は寛政29年(1797)ですから、最初の頃は庚申塚はなかったようです。

 青梅街道のこの時期の景観は絵図などには残されていません。茫漠たる武蔵野の原中を道筋が空と溶け合うような景観が続いたと想像されています。水場が無く、陽炎が立ったのでしょう「武蔵野の逃げ水」の言葉が残されています。

 慶長16年(1620)、青梅に、吉野織部之助が「新町」を開設した際、江戸道について、「幅三間、末は五間、野道通り、人家なし」と記しています。
 また、約30年後の武蔵田園簿(慶安2年~3年・1649~50)の「武蔵国道法」は次のように記しています。

馬頭観音 享保16年(1731)建立 特に道標の案内は彫られていません。
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江戸麹町札ノ辻より甲州境原村迄道法

一、麹町札ノ辻より中野まで壱里廿四町 但、道広さ四間 此間に川壱つ
一、すがたの川(「姿見の橋」)橋長さ八間 水深さ弐尺、小石砂川、
  橋は落ち渡りなし
一、中野より田無町まで三里三町 道広四間五間
一、田無町より青梅町まで七里三町 但、原道 この間に原あり
一、原の間六里 家なし
一、青梅町より甲州境原村まで拾一里廿四町 但し、道広弐間一間一騎打の所あり
  この間に川三つ
一、川井川、橋の長八間 但、橋は落ち通路なし
一、氷川橋の長八間 但、橋は落ち通路なし
一、小河内川、橋の長七間 但、橋は落ち通路なし

  道法合弐拾三里拾八町 (一部省略し、ひらがなにしました)

 「田無町より青梅町まで七里三町(約27.8キロ㍍) 但、原道、この間に原あり、原の間六里(約23.56キロ㍍)、家なし」と田無~青梅の間には、家が一軒もない一望の原野で一筋の「原の道」が通じていたことに注目です。この中を御用石灰の旗を掲げて、水場もない中を一団が進んで行った姿が浮かびます。

現在の新青梅街道・庚申塚交差点 庚申塔などの石仏は雲性寺境内にうつされています。
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青梅街道の呼称

 現在、「青梅街道」の名で呼ばれている道は長い間、「成木道」「江戸みち」「あふめ道」「みたけ道」「江戸往来」「江戸往還」「江戸表より往来道筋」「甲州通り」「甲州裏道」「甲州大菩薩道」などと呼ばれていました。青梅街道と呼ばれるようになったのは明治以降とされます。

   (2019.01.28.記 文責・安島喜一)

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