米軍大和基地の返還、跡地の利用運動

 昭和40年台初め、沖縄基地の返還問題、砂川基地闘争などが話題になる中、立川基地の飛行中止、返還の動きが出てきました。

返還決定

・昭和43年(1968)12月19日、立川基地滑走路拡張計画中止を米空軍司令官が発表
・昭和44年(1969)11月30日、米軍、立川基地からの飛行部隊撤退を発表
・昭和44年(1969)12月15日、立川基地における飛行が停止
・昭和48年(1973)1月23日、日米安保協議委員会が開催され、在日米軍基地の整理統合問題が討議
 ・関東では、横田基地へ統合する。
 ・府中・立川・キャンプ朝霞など七空軍施設は返還する。
 ・三年計画で横田に関係施設の移設をおこなう。
 とするものでした。立川飛行場に含まれる大和空軍施設は、三年後に返還が実現することになりました。
 東大和市は待ってましたと跡地の利用を願い出ます。しかし、強力な二つの相手が出現していました。

米軍大和基地とその周辺
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跡地の利用三つどもえ

1警視庁

 まだ、基地の返還が確定しない昭和47年8月25日です。警視庁総務部長から東大和市長に「米軍提供固有財産返還後の利用計画についての協力方について(依頼)」との依頼がありました。

 基地であった一部を当庁職員の教養、訓練施設として使用したいので特段の協力を賜りたい。
 1 名称 FA03012立川飛行場大和宿舎地区の一部
 2 所在 東大和市芋窪44
 3 土地 165,000㎡ (5万坪)
 とするものです。当時、基地面積は約340.000㎡とされていましたので、48%にあたります。

2西武鉄道(株)

 西武鉄道(株)は土地収用法の「買い戻し権」を主張しました。
 昭和48年(1973)3月、西武鉄道は防衛施設庁宛「不要になった場合旧所有者に返還する旨の書類」をもとに返還要請をしました。
 この背景には次のような経緯がありました。
・昭和27年(1952)、調達庁が西武鉄道所有地を米軍兵舎建設用地にあてることを決定
・西武鉄道は売り渡しを拒否し、昭和28年(1953)、調達庁は土地収用法を適用して国の所有とした
・昭和29年(1954)、調達庁不動産部長から、西武鉄道社長あてに、「米軍が大和基地を使用しなくなった時、旧所有者(西武鉄道)に優先払下をする」との念書が手渡された
 西武鉄道は、この「念書」をもとにして、土地収用法百六条の「買い戻し権」の主張です。

3東大和市

返還と一部開放の陳情

 東大和市は早くから行動を開始します。米軍が立川基地から飛行部隊を撤退するとの動きを察知した東大和市は
・昭和45年(1970)、基地跡地の返還と一部開放を陳情します。
  市長、市議会議長名 防衛庁、防衛施設庁、大蔵省宛
・昭和46年(1971)、基地跡地の返還と一部開放を陳情を継続します。
  市長、市議会議長名 防衛庁、防衛施設庁、大蔵省宛
・昭和48年(1973)1月12日、基地返還及び跡地の公共的利用を陳情します。
  防衛庁、防衛施設庁、都知事
・昭和48年(1973)2月27日、基地跡地の利用及び遊休施設の開放について陳情
  防衛庁、防衛施設庁、都知事

大和基地対策協議会の発足

◎市はいち早く行動を起こし、具体的に遊休施設の開放を求めました。しかし、事態は急転してきます。
 これに対応するため、市長部局と市議会が一体となって事に当たるため 
・昭和48年(1973)3月19日、大和基地対策本部発足
・昭和48年(1973)4月7日、基地対策協議会を結成しました。対策協議会には次の諸団体がメンバーとなりました。

東大和敷地対策協議会構成団体(『東大和市史資料編』1p14)
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市の跡地利用計画・市民大会

 市の意志を明確に主張するため、市内の要所に「大和基地の跡地は市民のものに」と書いた看板を掲げ、市役所庁舎に垂れ幕が下げられました。そして、独自に利用計画を立て、市民大会を開いて決定し、関係機関に働きかけました。

・昭和48年(1973)5月4日、臨時市議会で米軍大和基地の返還および跡地利用に関する意見書採択
・昭和48年(1973)5月20日、大和基地対策市民大会開かれる 第一中学校校庭
 その場で、市の利用計画は決定されました。

東大和市跡地利用構想『東大和市史資料編』1p146をもとに作成
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 基地跡地を巡る動きは市民の大きな関心を呼び、警視庁、西武鉄道(株)とあわせて、マスコミは三つどもえ合戦と呼びました。

   次に続けます。

   (2019.06.15.記 文責・安島喜一)

  大和基地の建設通知・反対運動

  基地の建設・中学校移転

  基地の部分開放・一時使用

  東大和の歴史・現代