飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾え

飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾え

天明8年(1788)7月10日
 幕府役人飯塚常之丞から、東大和市域の村々に次のような通達が出されました。

飢饉のための貯(たくわえ)に田螺(たにし)を拾い集めよ

・水田や小溝(こみぞ)等にいる田螺(たにし)を子供達に拾わせて
・村役人方へ取集めて、
・湯をかけて
・干し上げて貯へて置けば、
・飢を凌(しのぐ)ぐ助になる。

 以上から各村々では
・農業が手すきの時、干し方等も世話し
・貯蔵するように申し渡す。
・田螺を拾ひ集めた子供へは手当を与えることもよろしい。
・もちろん、農業に忙しい時はあいならぬことである。
 この節、早々に取り計らえ。(『里正日誌』2p390)

 天明年間と云えば、天明2年(1782)7月の浅間山噴火、天明6年(1786)の皆既日食(かいきにっしょく)など天候異変と共に米価の値上がり、飢餓人続出、諸国大飢饉、江戸打ち壊しと事件が続きました。

奈良橋村絵図(年代不明)
田は少なく、丘陵南麓はほとんどが畑
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 そんな最中に、村々に来たお達しです。東大和市域の村々では、水田が少なく、村山貯水池に沈んだ区域と丘陵の谷ッに僅かに水路がありました。子ども達は争って探し、奪い合った様子が目に浮かびます。

 (2019.06.27.記 文責・安島喜一)

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