馬頭観音をまつった背景(東大和市)

馬頭観音をまつった背景(東大和市)

 東大和市内には、寛政3年(1791)を最初として、昭和2年((1927)まで、23基(19基確認)の馬頭観音様がまつられています。どのような経過で村の人々はおまつりしたのでしょうか。資料不足の中で、辿ってみます。
 村人達が大切にしたのは紛れもなく馬の供養です。そして、馬頭観音塔の旧地はいずれも主要街道の要点にまつられています。農耕と同時に、街道の行き来に深く関わりがありそうです。

畑が圧倒的に多く地味が悪く耕地面積は狭かった

 耕地の状況を辿ると、馬を耕作に活用できる農家は限られています。徳川家康の家臣団が東大和市域の村々に配属されたのは天正19年(1591)でした。その際、谷ッに散在していた集落が村切により、初めて芋窪村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、清水村と名前の付いた村が成立しました。
 それから30~40年後です。奈良橋村、寛永年間(1624~44)の耕地の状況が残されています。

奈良橋村の寛永年間(1624~44)の耕地
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 寛永年間は、まだ玉川上水、野火止用水が開削される以前です。村人達の生活基盤は狭山丘陵の麓に限られていました。農耕地も空堀川以北であったと推測します。

奈良橋村の耕地の田・畑別は
 田が 2町1反8畝
 畑が 25町4反7畝
で、圧倒的に畑が多い地域です。田は村山貯水池に沈んだ区域と八幡谷ッに若干ありました。
 地味や収穫高によって田は上・中・下、畑は上 ・中・下・下下分かれます。
 上田は少なく、10%、下田 が58%
 上畑は少なく、13%、下下畑が54%
 畑作中心の生産性が低い状況であったことを伝えます。

奈良橋村田畑の所持階層

 その田畑の所有関係です。所持反別に見ると、下表の通り、全部で65人が田畑を所有していました。圧倒的に多いのが3反以下で58%を占めます。
 1.5町~2町が1人で、特殊な地位を占めます。
  5反~9反層がばらつき
  3反~4反層が37%を占めます。
  2反~1反未満が36%を占めます。

 地元では「3反百姓」と言う言葉がよく使われます。一般的な農家の農耕経営がギリギリに成り立つ基準で、自嘲的にも聞こえます。奈良橋村では21.5%を占めていました。それ以下の3反に満たない層は合計で36%になります。

 『東大和市史』は、1反と1反未満を合わせると15人になり、この内、自分の屋敷を持っていたのは2人、13人が無屋敷層であったと記しています(p148)。
 無屋敷層は親か親戚に寄寓しながら独立を目指す農民と考えられます。結婚しないで暮らす「おんじー」と言う言葉が痛く突き刺します。この時点では、馬の飼育は一部の階層に限定されて居たと思われます。

少し経営規模が改善された

 30年ほど経過すると3反以上所持者が少し増えてきます。村が違いますが、延宝5年(1677)、後ヶ谷村の状況です。

 延宝5年(1677)、玉川上水・野火止用水開削後、20年余を経過しました。武蔵野の新田開発が進み経営規模が拡大されてきていることがわかります。

 しかし、相変わらず3反未満の農家が多く45%を占めています。その後、野火止用水際までの新田開発は1600年代終わりまでにほぼ完了しています。その時の所持階層が鍵を持つようですが、明らかになっていません。とても残念です。

主要な農産品は稗、粟

 時代が飛びますが、蔵敷村、文政4年(1821)の作付面積です。水田が少なかったため米は僅かで、丘陵の南に広がる武蔵野の原野を野火止用水際まで新田開発をした畑地に、稗、粟、大麦、小麦の雑穀と野菜が中心でした。稗、粟が多く芋が続いています。

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 これでは年貢が現物の「米」で納められません。この状況は明治維新による地租改正まで続きます。
 金納のための何らかの策が必要でした。  

馬を飼育する農家数が多くなる

 1700年代の農耕地の所有階層別資料を欠きますが、この間に馬持ちの村人が増加してきました。
 市内で馬に関する記録は『里正日誌』に、元禄16年(1703)2月、後ヶ谷村馬数書上が残され
 「百姓持馬三拾一疋」
 の記録があります。(1巻p218)

 『武蔵村山市史資料編』近世 正徳元年(1711)7月 横田村明細帳に 
 「薪炭青梅町にて買い つけ出し、稼ぎつかまつり」(p70)とあり

 『武蔵村山市史』は享保3年(1718)岸村の明細書として
  「耕作の間、男は炭・薪をつけ江戸表へ罷り出、肥・灰に取り替え申し候・・・」
 と農間稼ぎの状況を記しています。(上巻p950)

 また、『里正日誌』に、宝暦12年(1762)奈良橋村蔵敷分村鑑帳があり
  「当村、農業の間、男は炭薪江戸表へ付け出し商いつかまつり候、女は野稼つかまつり候」の記録があります。(『里正日誌』2p79)

 農業の合間に、馬で江戸へ薪炭を運び駄賃稼ぎをしている記事が増加します。
 安永時代(1778)に入ってから、後ヶ谷村の状況が次の資料で具体的になってきます。馬を飼育する農家が半数近くになっています。

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 この要因は江戸近郊への貨幣経済の浸透と共に、東大和市域の農家の経営も変わり、養蚕、機織り、江戸への駄賃稼ぎに主力がおかれてきたことを意味すると考えられます。

江戸への駄賃稼ぎ

 年貢が金納であることと、武蔵野の原野を新田として開発した農地は地味が悪く、干鰯(ほしか 乾した鰯)などの肥料が必要でした。そのためには金銭が必要で、商業ではなく稼げる方法として、江戸市中に薪や炭を運び、その駄賃を元に干鰯などの肥料を仕入れる方法が認められていました。

 文久3年(1863)後ヶ谷村明細帳です。

一、馬持ち百姓は持山に出て、木樵、炭薪にして、
・或は、青梅、飯能、五日市、八王子等で、炭薪を買入れ、
・馬附にして、夜四ッ時(午後11時)から江戸に出かけ、
・御屋敷様に納め
・翌日は夜五つ前後(午後8時)に立ち戻り
・駄賃稼ぎをしています。
 と記されています。

 江戸街道(現・青梅街道・新青梅街道)を中野や新宿で妨害に遭ったりしながら、夜通し馬を引いて歩む姿が浮かびます。
 コース等は「駄賃稼ぎ」に書きました。

江戸街道・青梅街道の奈良橋庚申塚にまつられた馬頭観音 寛政9年(1797)
現在は雲性寺門前に移っています。
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庚申塔から馬頭観音へ

 もう一つ、東大和市の特長なのでしょうか、馬頭観音塔は庚申塔を引き継ぐかのようにまつられます。
 市内最古の庚申塔は延宝8年(1680)造立で、江戸時代最後の塔は寛政2年(1790)です。馬頭観音はその翌年の寛政3年(1791)からまつられ、昭和まで続きます。何らかの関連があるのか、お教え下さるようにお願い致します。

 このような経過で、市内の馬頭観音はまつられました。農耕も考えられますが、江戸への薪炭運搬、帰路の肥料仕入れによる駄賃稼ぎの往来安全が主であったように思われます。

  (2019.07.12.記 文責・安島喜一)

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