蓮華寺の馬頭観音(東大和市)

蓮華寺の馬頭観音(東大和市)

 蓮華寺の門を入ってすぐ右側に石仏が並びます。その一番左側に、目の前の道路方面を向いた石塔があります。
 寛政11年(1799)の馬頭観音です。

門を入って右側の石造物 クリックで大

 村山貯水池に沈んだ石川の里、蓮華寺の旧地付近にまつられたと伝えられます。大正年間、寺とともにこの地に移りました。

寛政11年(1799)の馬頭観音正面
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 高さ 174.0㌢ 巾39.0×23.0㌢

 正面に廻ると、東大和市内では見かけない石塔です。
 上部に三面六臂の青面金剛座像を浮彫にして、下部に「馬頭観音」を意味する言葉が梵字で彫られています。

正面上部 三面六臂の青面金剛座像 クリックで大

 左右の第一手は根本印、右第2手は斧、第3手は鉾
 左第2手は輪棒 第3手は輪

梵字の馬頭観音真言 クリックで大

 馬頭観音の真言
 「オン・ア・ミリ・ト・ドムパ・ウーン・ハッタ」
 と彫られていると解説されます。

 右側面 寛政十一己未春   
 左側面 武州多摩郡芋窪村石川講中
 とあります。(寛政十一・1799)

石川の里の旧位置 クリックで大

 東大和市最古の馬頭観音は寛政3年(1791)、隣接した内堀の里にまつられ、現在、奈良橋の庚申塚墓地に移っています。
 今回紹介する馬頭観音はそれに次ぎます。
 建立された寛政11年(1799)当時は、 イギリスやロシアが室蘭やエトロフ島に来航、日本国と諸外国の緊張が始まります。
 そのような中で、主要街道における人馬賃銭の割増し徴収、尾州家鷹場 に要した費用の増加など村が厳しい対応を迫られた時でした。
 江戸市中への農間稼ぎの必要性が高まり、豊作とともに馬の供養、道中安全を祈願したものと思われます。

 1796(寛政8)年
 ・3月8日、幕府、諸大名に行列の風俗の質素化などを命じる。
 ・8月、イギリス人プロートン、海図製作のため絵靹(室蘭)に来航、翌年にかけて日本沿岸を測量する。
 1797(寛政9)年
 ・7月、イギリス人プロートン、再び室蘭に来航する。
 ・閏7月、幕府、寛政3年に命じた異国船漂着時の警備を諸大名に示す。
 ・11月、ロシア人、エトロフ島に上陸する。
 ・蔵敷村の尾州家鷹場に要した費用村入用の26%を占める。( 寛政9年(1797)~慶応2年(1866)年「村入用帳」による)
 1798(寛政10)年
 ・11月18日、幕府、主要街道の各宿に人馬賃銭の割増し徴収を許可。
 1799(寛政11)年
 ・1月、幕府、松前藩から東蝦夷地の支配権を取上げ直轄地とする。蝦夷 地警備と開拓のため八王子千人同心とその子弟を送る。
 ・1月16日、幕府、松前藩管轄となっていた東蝦夷地を幕府の直轄地とす る。勘定奉行石川忠房らを蝦夷地取締御用掛に任命。

  (2019.08.13.記 文責・安島喜一)

 東大和市の馬頭観音

 馬頭観音をまつった背景

 寛政3年(1791)馬頭観音(東大和市最古)

 雲性寺(奈良橋庚申塚)の馬頭観音

 石造物

 蓮華寺