豊鹿島神社本殿の棟札3(東大和市)

豊鹿島神社本殿の棟札3

 豊鹿島神社現本殿の棟札の続きです。創建棟札(文正元年・1466)、天文19年(1550)の棟札に続いて3枚目になります。

(3)天正4年(1576)棟札について

  豊鹿島神社現本殿棟札に、天正4年(1576)のものがあります。

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表面
   武州多東郡上奈良橋郷  細野主計殿 番丈衆十人御力合
  奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事
    当別当若満命姉 大工乙幡将左エ門秀吉
裏面
   天正×年(1576)丙子二月朔日 筆者□貴(花押)

 別当若満は現神官の先祖とされます。「大工乙幡将左エ門秀吉」についてはこの姓を継ぐ方々が地元にいます。改修工事の主導者である「細野主計殿 番丈衆十人御力合」は確定されていません。

細野主計・番丈衆十人御力合は誰か?

 天正時代に入ると武蔵は下の略年表のとおり一挙に名だたる戦国大名の攻撃を受けます。武蔵は後北條氏の支配下にありました。東大和市付近では、これまでの有力者・山口氏は岩付城主太田資正の家臣と位置づけられて、所沢市山口の一部を領していました。
 
 永禄2年(1559)2月12日、北条氏康は、支配下にある武士達の所領を書きあげた帳簿を作成しました。『小田原衆所領役帳』と呼ばれます。その中で山口氏は
 岩付城主太田資正家臣
 40貫文 
 山口の内 山口平六
 大かね 
 藤沢分
 小野分 
 となっています。

 大かね=大鐘 藤沢=入間市藤沢 小野は北野の誤写ではないかとされます。いずれにしても狭山丘陵周辺全体の領主・統治者ではなく、太田家の家臣で、限定された地域の支配者となっていることがわかります。

 下図は後北條氏の統治領域の概念図ですが、武蔵一帯が氏照の滝山城、八王子城を中心とする領域となっています。豊鹿島神社の存在する地域もこの中に含まれていました。この状況下で、豊鹿島神社本殿の修理が行われました。

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当時の動きを略年表で整理します。
         
・永禄4年(1561)2月、長尾景虎(上杉謙信)、厩橋城(前橋市)から小田原城に向けて出陣、小田原城包囲、
  帰途、鎌倉鶴岡八幡宮において関東管領として拝賀
・永禄7年(1564)5月23日、氏照が三田氏の旧臣41人に対し清戸の番所勤務を命ずる。
 午前8時前に箱根ヶ崎に集まり、清戸番所の警備に付けとの命令
・永禄12年(1569)武田信玄が滝山城を攻撃、小田原城包囲
 北条氏照が八王子城築城を構想か?
・元亀2年(1571)12月27日、北條氏、武田信玄と同盟し、上杉謙信と敵対関係に入る
・天正元年(1573)7月、織田信長が足利義昭を将軍職から追放、室町幕府は滅亡
・天正3年(1575)5月21日、信長・家康、三河長篠において武田勝頼を破る(長篠の合戦)
 氏照、高尾山に制札を掲げ、本尊開帳について参詣人の乱暴等を禁ず
・天正4年(1576)2月、豊鹿島神社本殿修理
・天正5年(1577)6月、氏照下野に出陣
 信長安土城下町を楽市と定める

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早く知りたい

 このように、天正4年(1576)2月の豊鹿島神社本殿修は戦国大名がその版図を巡って活発に動きを重ねる最中に行われています。
 この時の施主である理細野主計は誰なのか?ここでも、暗礁に乗り上げます。一人の人物として、天正12年(1584)、小牧長久手合戦の直前の話題に、豊臣秀吉の家臣として名を連ねる人物が見られますが、同名の人物は多くの存在が考えられます。しかし、それが誰であるかは確認はされていません。「細野主計とその家臣十人」となると集団であることから、発見は可能と今後に期したいと願います。

 次に続けます。

 (2019.12.12.記 文責・安島喜一)

 豊鹿島神社本殿の棟札1(文正元年・1466)

 豊鹿島神社本殿の棟札2(天文19年・1550)

 豊鹿島神社本殿の棟札4(慶長6年・1601)

  豊鹿島神社の歴史

  豊鹿島神社に関わる地誌の記録

 東大和市内の神社