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江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)  今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。  東大和市周辺には、狭山丘陵の …

村に来た地頭様

村に来た地頭様  家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。  「泣く子と地頭には勝てぬ」 …

村に地頭がやってきた

村に地頭がやってきた  天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没 …

盗賊二人打ち殺しのこと

盗賊二人打ち殺しのこと  幕末です。明治維新寸前の慶応4年(1868)閏4月16日のことです。現在の多摩都市モノレール桜街道駅から青梅橋にかけての桜街道(旧青梅街道)での出来事です。  当日は晴れ、午前10時頃です。芋久 …

相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立

相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立(明治2年・1869~3年・1870) 1県が所管する村の管轄替え  明治2年から4年にかけて、またまた、村人達は所属県の騒動に巻き込まれます。県が所管する村の管轄替えです。  東大和市 …

大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革)

大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革)  当初は、村人達の反発もあった八州廻りは、費用や協力体制の上から、次第に定着します。そして、狭山丘陵の南麓には、文化4年(1807)、早々と浪人取締組合村が設置されてい …

八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807)

八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807) 荒れる村  天明の飢饉以降、1700年代の後半になると村は様変わりしたようです。  借金で困ってどうしても耕地を手放さなくてはならなくなる農民が出てきます。すると、いつ …

幕末の村の領主様(安政2年・1855)

幕末の村の領主様(安政2年・1855)  東大和市域の幕末の村の姿です。一般的な様子は『新編武蔵風土記稿』などに描かれますが、今回は視点を変えて、村の領主・支配関係から紹介します。 安政2年(1855)3月、東大和市域に …

かたき討の話(東大和のよもやま話)

天保年間、天候が安定せず、飢饉、物価高が続きました。80%の村人達が飢えて、お互いに融通し合って過ごす中で、行き倒れや捨て子の記録とともに、長脇差や刀を帯びた「無宿」や「渡世人」が渡り歩いたことが伝えられます。 その時、 …

大まかな歴史の流れ 5 近世 4 荒れる村

1踏んだり蹴ったりお犬様 狭山丘陵周辺の生類憐れみの令 延宝8年(1680)8月、五代将軍に綱吉が就任します。武蔵野開発に力を入れた三代将軍家光の四男です。放漫になりかけていた幕制改革に着手しました。一方で、生類憐れみの …

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