ルート図番号入り5

 郷土博物館~太子堂跡~蔵敷高札場 とかっての旧道、蔵敷村の道を辿ります。画像はすべてクリックで大きくなります。

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  博物館の前の道を西へ進みます。細くて曲がりが多い道ですが、江戸時代、狭山丘陵の裾野を端から端まで縫うように結びつけた広域の村山道の一部でありました。現在の青梅街道は大正8年(1919)、屈曲を解消し道幅を広くするため位置を移動してして開通しました。

東大和市案内図明治14年ルート文字のコピー

 現在の地図に、現・青梅街道が開通する以前の明治14年(1881)当時の道路を復元してみました。

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  屈曲する道の傍らを奈良橋川が激しく屈曲して流れます。

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  道はこの地点で3方向に分かれます。直進して左折する御嶽神社への道。右に進んで、狭山緑地方面に向かう道です。この道が蔵敷村と奈良橋村の境界でした。当初は一緒の村で 「正徳年中(1711~1715)分村」とされます。
 今回のコースは左に曲がり太子堂を経て青梅街道に至ります。

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  左は御嶽神社です。創建年代は不詳ですが、青梅市の御嶽神社との関係を持っています。右は上の画像の市立狭山緑地の矢印の箇所から入って間もなくの緑地の秋の姿です。ここからたくさんのコースに進むことができます。
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 今回のコースに戻り、緩やかに曲がる道を進むと右側に太子堂が見えます。

17太子堂2

  聖徳太子をおまつりします。 この地では太子のもたれる建築技術面の才能を尊敬して職人集団ががおまつりしました。太子像には 享保12年(1727)、堂については文化4年(1807)の年号のある古文書が残されています。

 太子堂では江戸時代に寺子屋が開かれました。明治になってからは、 蔵敷村・汎衆学舎 (はんしゅうがくしゃ)として最初の小学校になりました。 19PICT7943

 敷地の東南に二つの石碑があります。左は出羽三山供養塔、右は石原伴鳳(いしはらばんぽう)碑です。 出羽三山は山形県の月山、羽黒山、湯殿山の三山で、五穀豊穣、家内安全、無病息災などを祈願して村人達がお参りしました。その時の記念碑と云えます。年号が不明なのが残念です。

 石原伴鳳は 天保の初め(1830)には、太子堂で 寺子屋の師匠を務め、近隣の村々から尊敬されました。豆腐づくり、玩具の行商をしながらの事であったと伝えられます。明治初年の小学校で初代の教員として教鞭をとりました。

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  地蔵堂のお地蔵さんは、台石に享保15年(1730)、海誉智観法印、施主小嶋五良兵衛と彫ってあります。智観法印は、太子堂の住僧で、施主は太子堂の近くにある旧家の小嶋一族の先祖です。小嶋家が立ち並ぶ道を進みます。
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  道の曲がり角の小嶋家に、江戸時代中期、「大井戸」と呼ばれ、蔵敷村の人々が共同で使える大きな井戸がありました。そこに高札場がありました。やがて、これから訪ねる地に移りました。

25旧道青梅街道交差

  旧道から青梅街道に出ます。右に曲がります。

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  青梅街道に出て、西(青梅方面)へ向かいます。

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 内野医院の門前に蔵敷高札場跡があります。江戸時代、様々なお知らせが掲示された場所です。東京都の史跡に指定されています。

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  ここに掲げられた高札は市立郷土博物館に展示されています。明治維新後に初めて掲げられた高札の中に、キリシタン禁制の一枚があり、関心を強めます。

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 高札場跡を前に、狭山丘陵を背に蔵敷村名主内野家があり、邸内(画像右)には代々の名主が綴った貴重な「里正日誌」を保存する史料庫があります。

里正日誌

 多摩各市の市史に引用され、郷土の記録として貴重な里正日誌。貞永元年(1232)~明治6年(1873)に至る間の詳細な記録が残されています。市によって全巻復刻される計画で、現在第8巻から11巻までが出版されています。

36高札場熊野神社

  高札場跡の横に、蔵敷村鎮守の「熊野神社」への参道があります。

38小島家

  狭山丘陵南麓に生活の本拠を築いた家々が並び、画像左の家の背後には、中世の五輪塔が保存されています。

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 コースは青梅街道を右に曲がって進みます。

 次6へ続く

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