西武拝島線玉川上水駅を北口に降りると正面に駅前広場があります。

玉川上水駅北口駅広11

 駅広は、バス停、車道と島の広場で構成されています。米軍大和基地の碑は画像の横断歩道を渡って左に進むと設置されています。

 かって、この地は有刺鉄柵で囲まれ、門は軽武装したアメリカ兵に守られていました。米国空軍の基地で、宿舎が建てられ、後にハイスクールにもなっていました。

 それ以前は、軍需工場があり、陸軍の飛行機のエンジンを作っていました。
 そのため、昭和20年(1945)、米軍の爆撃を受けて、工場は壊滅し、一面が焼け野原となりました。

 その跡につくられたのが米軍の基地でした。

DSCN35061のコピー

 碑には「Yamato Air Station」と彫られています。

大和基地の碑

 碑の傍らの説明版は次のように記しています。

 「かってこの地域は雑木林でありましたが、地域の発展を願って、昭和の初め工場が建設されました。

 この工場は太平洋戦争のとき爆撃にあい、すべてが灰燼に(かいじん)帰しました。
 その後、朝鮮戦争のとき、米軍大和空軍基地が開設されました。
 この石碑はそのとき基地正門に建設されたものであります。(一部省略)

  平成二年一月吉日
           東大和市長 尾崎清太郎」

 基地の広さは、下図の通り、現在の玉川上水駅周辺から都立東大和南公園、警視庁総合教養訓練施設に及びました。

大和基地位置図

 米軍大和基地は昭和31年(1956)2月24日に開設されました。その経過は次の通りです。

 ・昭和20年(1945)、爆撃を受けた日立航空機(株)の工場跡地は多くの部分が西武鉄道(株)の所有地となりました。
 ・工場に併設された青年学校の校舎(現在の丸山台団地、ヤオコーの場所)を当時の大和町は唯一の中学校校舎として使用していました。
 ・昭和27年(1952)、突然、国から米軍兵舎建設の通知が届きました。
 ・教育環境、地域の環境をまもろうと、町を挙げての反対運動が広げられました。
 ・昭和28年(1953)、用地は強制収容されました。
 ・昭和28年(1953)7月10日、大和村長内野禄太郎、衆議院外務委員会で、中学校の移転、飲料水対策などについて要望
 ・昭和28年(1953)9月1日、兵舎建設工事の入札行われる
 ・昭和29年(1954)、兵舎工事完成
 ・昭和30年(1955)、極東空軍大和基地として開設準備
 ・昭和31年(1956)2月24日、正式開設 FA03012立川飛行場大和宿舎地区、立川空軍基地D地区との位置づけでした。
 ・昭和31年(1956)、中学校は現・第一中学校の地に移転しました。
 ・基地として使用中も返還運動は続けられました。
 ・昭和44年(1969)、立川基地の飛行が停止され、3年後の返還の実現性が出てきました。 ・昭和48年(1973)、在日米軍基地の整理統合が行われ、立川基地、大和基地も返還されました。

返還後の大和基地1

 返還後の大和基地跡 左上の塔は今はなき給水塔

 返還後、跡地利用を巡って多くの出来事がありました。ページを改めます。
 (2015.10.15.記)

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