江戸時代末、東大和市の村々はどのような姿をしていたのか?
 幸い、1800年代初め、幕府の手によってまとめられた資料があります。
 『新編武蔵風土記稿』(多摩関係は文政5年・1822) 『武蔵名勝図会』(文政6年・1823)です。
 また、地元の杉本林志氏による『狭山之栞』(江戸末から明治初年)があります。
 今回は『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』 から、東大和市域の村々を抜き出します。

 当時の村は狭山丘陵を背に南に広がる武蔵野の原野を新田開発した結果、

   芋久保村、蔵敷村(奈良橋村枝郷)、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村、清水村

 の縦に細く長い村が隣接し合っていました。

 細長い村宅部村入りのコピー
 現在とは全く異なるので、戸惑います。
 そこで、原文の途中に現在の画像を入れて試してみました。しかし、かえって読みにくくなることがわかりました。
 むしろ、『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』の原文を横書きにしたまま紹介した方が良さそうです。
 江戸時代以降との比較に小字名が参考になるので、両著各村の文末に、町名整理前の図を添付します。
 各村の現在の姿を含めた状況は村別に別のページにまとめます。(2016.07.12.記)