テレスケ太鼓と夜学 「報恩感謝之記額」

テレスケ太鼓と夜学 「報恩感謝之記額」 

狭山神社、社殿正面左側の上の方に「報恩感謝之記」の額が奉納されています。

「報恩感謝の記」
クリックで大

 標題から難しい字ですが、奉納者は「共励学会々員」で、明治34年(1901)の日付があります。時を経たため、読みにくくなって、現地での解読は無理のようです。最初の方を意訳します。

 「我らは、かねてより聞く、およそ農を為す者は耕耘(こううん)三事を務め、読書三余をもって応ずるなり。いわゆる三事は春に耕し夏に耘(草を刈る)し、秋に至ってこれを収穫する、すなわち農業三事なり、三余は冬は歳の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余りなり。

 我々は三余をもって書史を研鑽して、十年(十季)、ここにおいてわずかに弁識を得、人道のため何をなすべきかを知った。これはひとえに由木楽豊、関田謙齊氏が十年(十季)一日のごとく尽力下さった事による。・・・」

 奉納の年より10年ほどの前、明治20年代に、狭山で開かれた夜学について、生徒達がその夜学を開いた先輩に対する感謝の言葉が述べられています。小学生の頃から30台まで、神社の近くに住んで居たことから、奉納者を父に持つ方に直接、額の中身を聞く機会がありました。

「報恩感謝之記」の額の位置 クリックで大

 明治20年代の初めです。
 「おめえら若い者は夜遊びべえ、してんけど、ちったー(少しは)勉強もしたらよかんべえ」
 暇があるとハタオリ女をかまって遊び歩く状態をなげいて、 二人の先輩が勉強会を提案したようです。

 村は貧しい盛りでした。小学校をようやく卒業すると、若者はすぐ働きに出ました。労働の終わったあとの楽しみは、神社の前に置かれた力石で力競べをする。境内の社務所で、祭りの日に演ずるオハヤシ(囃子)の練習をする。少し年上は、暗くなった夜道を手を休めた機織り娘のところへ夜話に行く・・・などでした。

 その反面、この地域は自由民権運動の盛り上がりを経て、新しい村の在り方に刺激を受けていました。

 先輩の呼びかけに、13歳~14歳の3人の少年が応じたのが夜学の設立でした。村中を勧誘して歩いきましたがなかなか、応ずるものはありません。結局、あちこちの家を借りて夜学を始めました。学校で学んだ事の復習と四書五経などを読み合ったそうです。

 一方で、神社の社務所に毎晩集って、古老や先輩の指導を受けて、テレスケ、テレスケと祭り太鼓の練習をする組がありました。この連中には夜学組は面白くありません。「ナマイキな奴ら」です。自分らへの挑戦とも受け止めました。妨害が始まりました。石や土を投げたり、草履を隠したりです。

 夜学組は屈しなかったようです。逆に、熱心な誘いをかけて、ついにテレスケ連も仲間になりました。「共励学会」とはこうして一緒になった喜びを意味するのださうです。

現在の公会堂 クリックで大

 先生には、小学校の教師が身銭を切って当たりました。狭山公民館の前に碑がたつ内堀太一郎氏が中心でした。親たちも何かと面倒を見ました。それが、最後の方に「先祖へ恵みを忘れず」と「報恩感謝」の言葉になりました。

 丁度、木綿縞の機織が最盛期で、生徒達は仕事を持ち込んで作業をしながら話を聞いたそうです。やがて、場所は回り持ちから公会堂になりました。テレスケ太鼓連と時間を分け合って、夜になると電灯の明かりがついて、活気に満ちたと伝えられます。話を聞いた方は、最後に加えました。

 「おやじは村議になって村の仕事をしたけんど、おっかあは並大抵の苦労じゃなかったちゅうだ」
 明治の一時期を語ってくれる額です。
 『大和町史研究』(6p43~53)に伊藤好一先生による紹介記事があります。

 (2018.07.18.記)

東大和の歴史 現代

内堀先生の碑

狭山神社