大まかな歴史の流れ 5 近世 5 幕末の緊張

大まかな歴史の流れ 5 近世 5 幕末の緊張

1 黒船来航・松材切り出し

ペリー来航 嘉永6年(1853)6月3日、ペリーが黒船を引き連れ、浦賀沖から江戸湾に姿を現しました。アメリカ大統領の親書を持っての和親、開港要求です。幕府はすでにオランダから「別段風説書」によって事態を予測していたとはいうものの、江戸市中は大騒ぎになります。黒船来航と村(嘉永6年)

砲台の整備 6月9日、ペリーは久里浜に上陸、親書の受渡し、その後、幕府の反対をよそに湾内を測量、12日、明春に再来することを告げて、大砲を発射しながら去りました。
 江戸湾警備が問題となり、ともかく従前から湾岸に設けられていた砲台の再整備にかかりました。武蔵には砲台用のケヤキの木の運搬が命じられました

江川太郎左衛門のフル活躍 当時、東大和市周辺を治めていたのは代官江川太郎左衛門でした。伊豆韮山に本拠を構え早くから対外情勢に目を配り、備えを提言していました。さっそく、幕府の海防の会議に参画します。 
 内海防備、特に江戸市街の防衛に乗り出した幕府首脳に対して川路聖謨と連名で江戸湾の防備に関する上申を行ないました。台場の建設です。その結果、嘉永6年7月23日、「内海御警衛御台場普請」が決まり、併せて台場に備える大砲の鋳立が江川太郎左衛門に下命されました。

台場全景 クリックで大

台場の基礎材に松材の切り出し 東大和市周辺には幕府管理の「御林」がありました。ここに植林されていた松材が台場の基礎材に指定されました。狭山丘陵の村々はその伐り出しと運搬にあたることになりました。

 嘉永6年(1853) の武蔵村山市に伝わる指田日記に次の記述があります。

・9月12日、御林にて二千本切り抜き、福生村迄出すべき由、仰せ渡さるにより村中車引き人足、御林奉行より十日の内に出し尽くすべき由に付、隣村三ッ木・芋久保・石川・勝楽寺・蔵敷・奈良橋・砂川、右村々に助人足当たる。

 とあり、早くも台場の基礎材として、狭山丘陵の松が伐り出されて運ばれています。

単位人 (「理正日誌」による)
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東大和市内野家に伝わる里正日誌には詳細な記録が残り、伐り出しは翌年も続き、東大和市域の村々では芋窪、蔵敷、奈良橋、高木の村人たちが携わりました。
   
 なお、武蔵村山市史では嘉永6年中藤村を1,167人、高木村を56人とし、合計、嘉永6年2,495人 嘉永7年3,569人としています。

海防の大号令 幕府は嘉永6年(1853)11月1日、海防の大号令を出し、14日、海防に携わる諸大名の持場が改められました。
 ・一番台場は川越藩、二番台場は会津藩、三番台場は忍藩が警備する
 ・従前の川越藩の担当地域は熊本藩、忍藩の担当地域は岡山藩が引き継ぐ
ことになりました。

熊本藩細川家が領主(預所) この持ち場変更にともなって、安政5年(1858)2月29日、東大和市域を含む相模・武蔵の村々は警備費を生み出す所領として熊本藩細川家の預所となりました。安政6年(1859)3月、江川太郎左衛門に戻るまで継続します。

安政2年東大和市域内村の統治状況
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幕府領・旗本領の混在 さらに当時の村は一つの村に幕府領(天領)と旗本領(私領)が混在していました。例えば、高木村では天領名主と私領名主が隣接する地域をそれぞれに区分した治め、年貢の徴収などに当たっていました。詳細は幕末の村の領主様に書きました。

2皇女和宮のお通り・助郷

日米修好通商条約締結 嘉永6年(1853)6月、翌7年1月のペリー来航を契機に、嘉永7年(1854)3月4日、日米和親条約が締結されました。その後、鎖国か開国かで議論が沸騰する中、安政5年(1858)6月19日、幕府は朝廷の勅許を得ないまま、不平等と評される日米修好通商条約を締結しました。

桜田門外の変・公武合体 無勅許による条約締結、将軍継嗣問題などから大老井伊直弼批判が高まりました。井伊は反対勢力に強硬手段でのぞみ弾圧をしました。これらが積み重なり、安政7年(1860)3月3日、井伊直弼は桜田門外で暗殺されました。

 井伊直弼の跡を継いだ老中・久世広周、安藤信正は政治危機を乗り越えるため、公武合体を推進します。そして、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍家茂の結婚が決まりました。

和宮が桶川宿で宿泊した部屋1 1月13日
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皇女和宮のお通り 和宮一行は中山道を江戸に向かいます。日程は文久元年(1861)10月20日京都を出立、上野国より武蔵国に入り、11月15日、江戸への行程でした。

 狭山丘陵周辺の村々は、通常から中山道の宿駅である大宮宿、蕨宿などの助郷を受け持つ対象とされていました。文久元年(1861)9月から10月にかけて、狭山丘陵周辺の村々に臨時の助郷役が命じられました。和宮一行の通行に伴う中山道大宮宿と浦和宿への出動です。

助郷 村人達にとっては相当の負担でしたが、11月9日に始まって16日まで、9回出動がありました。東村山市史によれば、11月9日と10日には大宮宿へ行って、和宮一行の荷物、人馬の輸送を担当しました。また、命令により松明を100石ごとに3本ずつ持参しています。旅費、食料全て村持ちでした。

3江川農兵・蔵敷調練場

江戸騒動 文久3年(1863)3月の指田日記は
・3月16日、江戸追々混乱、御大名方の奥向きを知行所に送り、御旗本の老少女子を夫々に知行の寺院などへ遣わす手配あり、町方も田舎の縁を求め、荷物を運び老人を送り遣わす
・3月25日、雨。戸端人別、村々見張りを置く、人数に応じ竹鎗を持え置き、若し狼籍者手にあまる事ある時は、突き止め切り殺し候とも、苦しからざる由を申し渡さる
 と異常な状況を記録しています。一方、

・5月10日、 長州藩が攘夷を決行、下関(関門海峡)でアメリカ汽船を砲撃
・5月23日、長州藩がフランス商船を砲撃
・5月26日、長州藩がオランダ軍艦を砲撃
・7月2日、 薩英戦争
 と対内的にも対外的にも不穏な空気が生まれ、海防、村内の治安維持に課題が浮上します。

上新井農兵組合構成村
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農兵の設置 このような背景から、かねてから江川家が提案していた、農民が鉄砲を持って治安に当たる農兵の建議が認められました。
 文久3年(1863)10月6日、幕府海防係から江川支配の幕府領に限って、農兵取り立ての決定通知が出されました。東大和市に伝わる『里正日誌』(8p303)によれば、次の15組合が構成され、最初の取立人数の見積もりは、

 田無村組合(以下組合を略)、日野宿、八王子宿、駒木野小仏、青梅村、五日市村、拝島村、氷川村、檜原村、上新井村、木曽村、藤沢宿(藤沢宿之内村瀬谷野新田)、寺山村、日蓮村、中野村の15組合から415人でした。このページでは東大和市域の村々が属した上新井村組合について記します。

 新井村組合は狭山丘陵周辺の上新井村ほか21ヵ村で構成されました。東大和市域では宅部、後ヶ谷、奈良橋、蔵敷、高木村が参加しています。芋窪村は拝島組合村に属し、清水村は私領であったことから別の扱いになりました。

制度のあらまし 農兵制度の内容は、江川代官支配地に限ること、名字帯刀を許可しないこと、農民の中で、壮年強健の者を指定すること、農業を営む間に軍事訓練を行い、有事には兵卒として動員することなどでした。

 農兵のほとんどが名主、年寄り、組頭とその倅達でした。上新井村組合農兵隊では、農兵54人中、名主・組頭17名、その倅19名でした。隊伍仕法(たいごしほう)が定められ、銃砲の取り扱い、実弾射撃訓練をしました。

蔵敷組合調練場
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蔵敷組合 元治2年(1865)3月、幕府は武蔵、相模、下総の三国にある直轄領の支配替を実施しました。そのため、上新井村組合では、江川領域ではない区域が生じたことから、次の10ヵ村で再編成をして、蔵敷組合を構成しました。
 野塩、日比田、久米川、南秋津、野口、廻田、宅部、奈良橋、高木、後ヶ谷、蔵敷村

 訓練所は、慶応元年(1865)7月、田無村から蔵敷村に射撃場が作られて移されました。現在、三本杉と呼ばれる山王塚の南側の畑地3反を使用しました。使用料2両は組合村で負担しました。北西の一角に栗の木でつくった弾除けを埋め込んだ土手が築かれました。

武州世直し一揆と交戦 農兵は実質的には村の治安に対処しましたが、最終的には、慶応2年(1866)6月、蜂起した武州世直し一揆と交戦し、6月19日、終息へと働きました。世直し一揆と呼ばれる農民の蜂起であったため、交戦には両者ともに複雑なものがあったと推測されます。

4明治維新へ

農兵の出兵拒否 慶応2年(1866)6月14日、江川太郎左衛門支配下の村々の名主が、日野宿へ呼び出されました。第二次幕長戦争に農兵を投入するため、大阪に送る命令を伝えるための呼び出しでした。
 名主は、農兵設立の趣旨に違う旨を申し立て、反対の意向を示しました。翌15日、再度、日野に集まったとき、武州一揆が発生し、大阪行きは取り止めになりました。

 慶応3年(1867)12月18日、芝新銭座の江川役所の警備に武州の農兵200名の派遣が命じられました。
 各組合村は派遣に反対し、それぞれ免除の嘆願を行います。
・12月20日、江川太郎左衛門役所から農兵芝新銭座差し出すべく旨御書付を蔵敷組合村役人が受理しました。
・12月23日、蔵敷組合惣代野口村名主と後ヶ谷村名主が江川役所に「御免」願(24日付)を提出。江川役所殊の外ご立腹の上両人は宿預けになる。23日から29日まで7日間滞在、と里正日誌にあります。

 慶応3年(1867)10月、大政奉還の動きのもとで、村には対外的参戦を拒否する動きが現れ、早くも、江川役所の命令に服しない空気が生まれていることに注目です。

江戸からの退去 慶応4年(1868)2月7日、芋久保村に歩兵14名が宿泊。2月8日、歩兵500人が八王子に宿泊。と指田日記は旧幕府側の歩兵が東大和市域や八王子に宿泊していることを記します。高島藩諏訪忠誠(ただまさ)の歩兵隊や高遠藩主内藤頼直の一行が、早くも江戸を立って青梅街道や甲州街道を帰国しました。コースから見て、芋窪村に宿泊したのは高島藩の歩兵と思われます。
 高島藩の歩兵については、2月20日に内藤新宿問屋所から小川新田、廻り田村、中藤村に触れが出されています。180人が2月21日に出立するので、人馬の継ぎ立てに、内藤新宿まで人足を出せ、とするものです。同様の触れが東大和市域の村々にもあったのかどうかは不明です。これらからすると、江戸詰の歩兵達が分散して五月雨的に退去したことが推測されます。

江川邸 クリックで大

江川太郎左衛門の帰順 慶応4年(1868)2月12日、江川太郎左衛門が支配地絵図、石高帳、人別帳をもって新政府軍の桑名宿へ出頭しました。(里正日誌10p59)

甲州鎮撫隊の出撃 慶応4年(1868)3月1日、近藤勇が将軍御内意手許金5000両の軍用金と大砲2門、小銃 500挺をもって「甲州鎮撫隊」(甲陽鎮撫隊)をひきいて、東征軍の東山道先鋒を迎撃すべく江戸をたちました。3月6日、東山道先鋒総督府参謀板垣退助と勝沼で対戦、破れます。

江戸城開城 慶応4年(1868)3月14日、勝海舟・西郷隆盛会談  江戸城総攻撃が中止されました。
五箇条の誓文発布 慶応4年(1868)3月14日、天皇、五箇条の誓文および国威宣揚の宸翰(しんかん)を発布しました。 

追剥が休んだ青梅橋
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博徒集合・打ち首 慶応4年(1868)4月1日、勝楽寺村に博徒、など集まり、農兵が出動します。

 慶応4年閏4月17日、青梅橋と小川(小平市)の間で、芋久保村の村人が二人の追剥に出合います。大急ぎで金村に早鐘やホラ貝で触れを出し、三木村(武蔵村山市)まで追いかけて搦め捕ります。二人を蔵敷前の神送り塚に引き連れ、首を切ってその場に埋める、との事件が起こります。この時も農兵が出動しています。強盗二人打ち殺しのことに書きました。
 
 こうして時代は大きく変わり明治の維新を迎えます。次のページに続けます。

(2018.12.07.記 文責安島喜一)

大まかな歴史の流れ・略年表

幕末の村の領主様