ルート図番号入り6

  青梅街道~元村山橋~蔵敷庚申塚~三本杉・農兵調練場~芝中団地中央公園・モニュメント「繭」 と蔵敷地域の旧道、史跡、モニュメントなどを辿ります。画像はす」べてクリックで大きくなります。

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 元の方向に戻り交差点で青梅街道を右折します。現・青梅街道が建設される以前の古道    です。

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 元村山橋で奈良橋川を渡ります。大正8年(1919)に新設された青梅街道に「村山橋」の名が付けられたため、村人達はこの橋に「元」をつけました。

奈良橋川本村山橋のコピー

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 奈良橋川はここでも激しく屈曲します 。

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  旧道との交差部です。下図の通り広域道の交わる主要な交差点でした。左は奈良橋、八幡通り方面、右方向は庚申塚、三本杉に向かいます。今回は右方向に進みます。ただし、歩いていると直進に感じます。

旧道との交差部1のコピー

  明治14年迅速図からの旧道の復元です。

蔵敷庚申塚

   蔵敷庚申塚に出ます。左は江戸街道、右は八王子道へ接続して居ます。右奥建物は 第九小学校です。下の図は昭和40年代(1965)の庚申塚の状況です。庚申塚の印象を良く残します。バックの建物は芝中団地です。

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  石造物は左から 湯殿山大権現祈願塔(天明2年・1782)、馬頭観音(文政8年・1825) 、庚申塔 (明和元年・1764) 、 西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔(明治28年・1895)がまつられています。

 この地は下図の通り蔵敷村の南はずれで、村々を結ぶ道路の交差する場でした。赤線道路は八王子道へ、茶線道路は奈良橋庚申塚を経て江戸への道に通じていました。そのために地域内での安心できる生活、旅の安全を願い、庚申塔や馬頭さまをまつっています。

昭和33年大和町蔵敷庚申塚文字のコピー

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 直進すると地元で三本杉と呼ばれる交差部に出ます。塚の上に杉が植えられています。 最初の杉は背が高く、現在の五日市街道まで一面の畑地が続いていたことから、砂川村 (立川市)、小川村(小平市)からも見えたと伝えられます。よもやま話「三本杉」が伝えられます。

 塚の上に山王様がまつられています。幕末には 敵討ちがあり、農兵の調練場が設けられました。

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 調練場には厳しい定めがありました。しかし、士農工商の身分制度が崩れて来たとは云え、農民に武装させることは、それだけ国際的緊張が高まっていたことを示すようです。農兵の多くは名主、年寄り、組頭などやその息子達でした。蔵敷村の名主・内野氏が残した里正日誌に調練場の図が記されています。鉄砲の射撃訓練を行ったことがわかります。

調練場図

 (出典 東大和市史資料編9p72)

73三本杉交差点

  三本杉の前を横切る道は現・新青梅街道奈良橋庚申塚から武蔵村山市中藤へ達します。江戸時代、中藤村の村人達はこの道を経て江戸へ向かったと考えられます。

昭和33年大和町三本杉文字のコピー

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 コースは芝中団地の中央を南に進みます。

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  団地中央のショッピング施設に接して中央公園があります。その一隅にモニュメント「繭」があります。東大和市域の村々で養蚕が盛んに行われ、一時この地域が一面の桑畑であったことから置かれています。

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  作品紹介に、「昔は、農作物だけでは収入が少なく、不作だと半年や一年は苦しむこともあったため、養蚕は農家にとって貴重な収入源にもなっていましたので、蚕のことを「オコ様」とか、「カイコ様」と呼んでいました。
 そのため畑には蚕の餌になる桑が一面に広がっていました。蚕を飼っている農家では、特に七月の下旬から八月二十日頃までは初秋養蚕で忙しく、九月は晩秋養蚕で大わらわでした。」

とあります。

 次7へ続く

 よもやま話 三本杉

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