青梅街道・奈良橋の交差点を少し西に、東大和市立郷土博物館への道を入ると左側に稲荷さん様が目に入ってきます。
江戸幕府が開かれる前のこと、家康は早々(1591~92年) と狭山丘陵周辺に直属の家臣を配属して来ました。お稲荷様の地に石川氏が配属され、陣屋を置きました。奈良橋村と名付けられ、その名主に岸氏が当たりました。『東大和のよもやまばなし』は語ります。
「・・・赤い鳥居の両側に、大きな「まさかき」が二本たっていますが、この木は五百年はたっているだろうと思われるもので、大正のはじめでさえ、東京府下にこんな大きな「まさかき」はないだろうと言われていました。ですから、このお稲荷様がかなり古くから祀られていたのではないかと思われます。
祠(ほこら)のすぐうしろを奈良橋川が流れているので、川端稲荷と呼んでいますが、昔から勘兵衛稲荷とも言われていました。祠の西隣に、江戸期のころ名主をつとめた岸さんの家があります。先祖の岸勘兵衛(きしかんべえ)という人が、鬼門よけに、お稲荷様を屋敷内に祀り、守り神にしていたので、勘兵衛稲荷といわれたようです。
祠の中には、ご神体が納まっている小さいお宮があり、ご神体は丸い石と長い石だと伝えられていますが、扉があけられないので、誰も見たことがないそうです。
ずっと昔、お稲荷様の近くに「げす溜」(肥溜・こいだめ)がありました。ある晩、お使い狐が「神様が気分が悪いと申しておこっている。」と、なきながらこのあたりを走り回って知らせたので、村人は驚いて早速、げす溜を他の場所に移しました。
また、はやり病や悪いことのある前知らせに、お使い狐がないて近所をとび回ったとも伝えられます。このようなことが、たびたびあって霊験あらたかなので、人びとが信心して、よくおまいりしました。はじめは岸家の守り神だったお稲荷様は、のちに村の人たちがお金を出しあって、祠の修理や改築をするようになりました。明治の頃には、信者が集まって稲荷講ができていました。
稲荷講は、毎年二月の初午(はつうま)に、赤飯をたき、油あげ、目ざし、うどん、お神酒などを供えて祭ります。そして講の人たちは輪番で「どうや」(お日待の宿)をきめて集まり、お日待をして楽しみます。今は祭日の二月十一日に稲荷講をしています。
戦前のことですが、この近くで遊んでいた子供が、自動車にひかれました。集まってきた人たちが「かわいそうに、死んでしまったろう」と言っていると、車の下から子供がはいだしてきました。よくみるとかすり傷一つおわずに助かったので、これはお稲荷様のおかげだと大喜びしたそうです。また、ここは十字路になっていて、車の往来がかなりありますが、大きな自動車事故が少なく、ことに死亡事故がないので、これもお稲荷様がお守りくださるからだろうと、土地の人は言っております。」(東大和のよもやまばなしp9~10)
この地域は畑作中心で、地味が悪く大量の肥料が必要でした。秣(まぐさ)や落ち葉などを集めて下肥(しもごえ) と混ぜて堆肥にしました。また下肥を溜めて中和する肥溜(こえだめ こいだめ)が重用されました。それらがさりげなく話題とされるところもよもやま話の持ち味と思えます。
道行く地元の方は、立ち止まって手を合わせ、講も規模が小さくなりましたが続けられています。横の道を鎌倉街道、府中道と伝え、中世からの雰囲気をとどめます。(2015.10.01.記)
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