モニュメント14・赤っ風

赤っ風位置図

 東大和市南西部、西武拝島線玉川上水駅の駅広にモニュメント・赤っ風はあります。   DSC_490512のコピー
 玉川上水駅北口に降ります。正面にバス停、左側に交番と階段があり、その間に設けられています。東大和市南西部、西武拝島線玉川上水駅の駅広にモニュメント・赤っ風はあります。
  赤っ風位置
 場所が奥まっていることと、鉄骨とブリキの寄せ集めのようなその姿から、関心が寄せられているとは云えそうもありません。
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 像のに市の説明板があります。

 「赤っ風になっちゃうかな」春先強い季節風が吹いてくると、村の人は気がかりでした。

 大正の頃、桑畑や、茶畑が続いていた東大和市では、春先の強い季節風が吹いてくると土ぼこりで空が真っ赤になり、あたりはなにもみえなくなるほどでした。

 この強い風が吹いてくると農家の家の中は土が一寸(三センチメートル)も積もるほど、土ぼこりのひどい所でした。この風を「赤っ風」といいました。
 赤っ風が吹く頃つむじ風も起こりました。畑でつむじ風に出会うと、地面にかじりつくようにして、つむじ風が通り過ぎるのを待ったそうです。

 ところが、この赤っ風を心待ちにしている人たちがいました。待望の赤っ風が吹いてくると、畳二畳分の大凧を原に運び、大人が三人ががりで上げたそうです。

 また、赤っ風の吹いた後の畑で石のやじりがよく見つかりました。
 静かだった村が町になり、家が建ち、畑がなくなった現在でも、春一番の吹く頃は、やはり土ぼこりが舞い上がります。―東大和のよもやまばなしから―

 この作品は赤っ風をイメージし東大和市美術工芸品設置事業の一環として制作したものです。
              平成四年度制作  飯塚八郎作 東京都ふれあい振興事業

と記されています。
 この地は、東大和市の人々にとって重要な地でした。江戸時代、玉川上水、野火止用水がつくられた頃(1653~1655)です。当時、村人達は狭山丘陵の麓に住んでいました。南は一面の武蔵野の原でした。狭い耕地に貧しい暮らしが続いていました。上水の開削に接した村人達はこの時とばかり原野を掘り返し、用水へと向かって一面の畑にする行動を起こします。水田はなくて、全て畑ですが、1600年代末には用水際まで新田開発を終わらせています。
 しかし、台地の土は関東ロームです、風に吹かれて赤く舞い上がりました。「神棚でゴボウがつくれる」と少し大げさに伝えられる位です。今のように家が建ち並ばない昭和20年代には、まだこの現象に見舞われました。
赤っ風2003年

 200639日、市街化された「現在の赤っ風」が舞いました。今ではすっかり宅地化が進み、モノレールも走って、そのかげに身を潜めるようにモニュメントは立っています。愛想もなく、ぶっきらぼうです。それだけに、人間がつくるホコリの恐ろしさを新しい言葉で語りかけられるように思えます。(2015.10.02.記)