昭和13年大和村縮図800

 昭和12年(1937)、当時の大和村南部に工場進出の話題が持ち上がります。下図のように人家は全くなく、一面に畑が続いていました。玉川上水から野火止用水が分水される村の南端です。野火止用水の縁をこんもりと松林が囲んでいました。進出する会社の名前は「東京ガス電気工業株式会社」でした。

(昭和13年(1938) 大和村縮図)

 「なぜ、ガスと電気の会社が、畑の中に?」
 と聞かれます。

・大田区大森にある会社でした。
・明治43年(1910)創業で、最初は街路灯の器具・ガスマントルの生産販売をしたことによります。その後は
・大正7年(1918)、航空機・自動車・工作機械・兵器・計器・紡績機機・火薬など生産販売
・昭和3年(1928)、軍用自動車・消防ポンプ・機関銃など生産販売
・昭和8年(1933)、航空、自動車、工作機械、計器に重点を置く
・昭和12年(1937)、自動車部、計器部、航空機部がそれぞれ独立、大森工場は航空発動機の工場になった

 との経過を辿った会社でした。

 「なぜ畑の中に?」の方です。

 立川飛行場周辺の航空機産業の立地に深く関連を持っていたと推測します。というのは、当時の大和村周辺には、下図のようにさまざまな航空機産業が立地していて、候補地の辺りしか隙間がないようです。これらの関連が強力に働いていたと想定されます。

狭山丘陵周辺航空機事業所

  具体的には資料が残されていません。ただ、小松ゼノア株式会社(後に、同じ場に立地)の社内報「小松ゼノア社報」で、当時の状況について関係者が座談会を開いた記録があります。その記事(第122号)によりますと、推定される根処として

(1)立川飛行場の周辺に所在した陸軍航空技術研究所および最大の納入先立川飛行機㈱の工場に近いこと
(2)一括して10万坪以上の広大なる土地がまとめられること
(3)既存の農地および人家と抵触せぬこと
(4)購入費、建設費の安価であること
(5)相手方に工場受入れの素地のあること

  をあげています。当時の大和村は村山貯水池の建設による移転、その後の経済恐慌の影響を受けて疲弊のどん底にありました。経済的自立を求めて活路を見いだす動きが高まっていたことは頷けます。

用地買収

 昭和13年(1938)1月、土地買収交渉が始まりました(東大和市史資料篇1p27)。小松ゼノア社報では、「土地の取得には昭和12年(1937)一杯、掛っている」としています。

 当初は、大森工場の10倍、約30万平方メートル(約10万坪)の用地買収を予定したようです。東大和市史資料篇では

・着工前は約264,480 平方メートル(8万坪余)
・第一次拡張計画で約112,400平方メートル(約34,000坪)、合計37万6千平方メートル(114,000坪)
・買収価格、当初は990平方メートル(約300坪) 400円であったが、600円まで値上がりした。
・直径30センチくらいの松の木が1,000 本以上もあった。

としています。(東大和市史資料篇 1p28)

 小松ゼノア社報には、「これだけ広大な荒涼地を求めるにはかなりの努力と時間を要したようだ」と記されています。

昭和13年東京瓦斯電気立地状況図

 東京ガス電気工業(株)は翌昭和14年(1939)、日立製作所と合併して、子会社の日立航空機(株)になります。そして、最終的には工場、住宅合わせて約191万平方メートルまで拡大されます。初期工場がどの程度であったのか不明ですが、当時の大和村の南側に新しい大きな核が築かれました。

 

 とくに、東京ガス電気工業(株)は工場と働く者の居住環境を一体化した新しい方法による工業都市開発(ジードルング)を目指しました。東大和市史は地域社会計画(p338)と呼んでいます。そのため、現在の桜街道を境として工場と社宅群が棲み分けをする形になりました。そのことについてはページを改めます。

ガス電通り

 東京ガス電気工業(株)の名称は桜街道のバス停に、ただ一つ 「ガス電通り」として残されています。

 (2015.10.16.記)

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