(東京ガス電気工業(株)の工場と社員施設の建設)

 鉄道関係の駅がない、人家も一つもない畑の中に工場の建設は突貫工事で行われました。

工場の突貫工事

 ・昭和13年(1938 )5月1日、地鎮祭・給水塔完成 10月、工場の一部完成
 第一回先遣隊来村、社員宿舎など未完成、大和村や砂川地区の農家の蚕室などを宿とする
・昭和14年(1939)1月、住居整備関係者大森から移転 3月末、工場完成
・昭和14年(1939)6月1日、陸軍航空本部との間で、増産要素を含め生産規模を決定
・昭和15年(1940)5月、社宅 554戸、独身寮完成
 入居時各戸への水道配管が未了で、共同蛇口、飲料水は特別配給
 街灯がなく、同型の家が並び、家を間違えることが多かった

と伝えられます。

 工場建設が進む中で、狭山丘陵南麓の清水では「娘っこに化けた狐」の話が伝えられます。

工場と社宅の一体計画

日立航空機株式会社立川工場拡張計画図

 建設が進む中で、建設現場は特徴を見せ始めました。工場群と社員、工員の住居分の地域的区別、運動場や映画館などの併設が現実のものとなってきました。

 左図の中央が現在の桜街道です。南(下部)が工場群で、北(上部)が社員、工員の住宅、福祉関連地域です。

 東大和市史は地域社会計画として次のように紹介します。

「・総坪数十万坪 ・工場五万坪・福祉地区五万坪
 ○社宅・寮 ○物品販売所 ○郵便局 ○診療所 ○映画館 ○幼稚園
 ○共同浴場 ○スポーツ施設・給水 給水塔から工場
・社宅などへ給水設備による給水完備による近代都市化。
・社宅 社員は一戸建 浴室付
   工員は二戸建(日立になって四軒長屋に変更)
   住宅施設は昭和十三年十二月から建て始め、第一住宅、第二住宅、第三住宅と工場 から遠い順に名称が付けられ、計画的に区画された住宅街が建設されていった。
・住宅総数 五五四戸
・独身寮=親和寮(職員) 純和寮(女子) 明和寮(準職員) 温交寮(製造) 青年学校寮」

富士見通り

現在も当時のまま残る富士見通り

 昭和20年(1945)米軍の爆撃で破壊され、計画はストップされましたが、昭和25年(1950)の計画は生きていたことがわかります。実質的には、この構想は、東京ガス電気(株)から日立航空機(株)へと経営が代わる中で一年で修正されます。しかし、下図は終戦当時の南街の寮と福利厚生施設の概略図です。現在の南街地域を細かく見るとその名残が残され、制限される中で、様々な施設がつくられていたことが偲べます。

  南町の出現

ガス電地域図 工場の建設、そこに関連する人々の動きは村人達にも注目の的になりました。「南まち」の出現です。東大和市史から引用します。

 「大和村や村山村は「東京のチベット」といわれる程貧しく文化果つる所といわれていた。そこへ都会から多少でも文化的洗礼を受けた人たちが移住してきたわけである。南街と本村の間には広い空間があったので影響もなかったが、学校へ通う子どもたちの間では、生活の格差で問題が起こったこともあった。

 服装にしても本村は着物や綿入れ半纏(はんてん)、社宅の子は洋服、持ち物など南街の母親は、目立たぬようにと気を使ったつもりだが、子ども同士のあつれきはあったようだ。その最も大きな理由は弁当にあった。本村の子は日の丸弁当とか一品もののおかずで、社宅の子は多彩なおかずで多少よかったということにあった。

 当時、大和村はほとんど狭山丘陵沿いに住宅があり、立川へ買い物へ行くには自転車か徒歩という時代であった。そんな中で南街の出現である。夕方涼しくなると南街の人たちが夕涼みの散歩に出てくる。そんなことはこの村でかつてなかった。スカートをはいてきれいな格好をして、ぞろぞろ歩かれては目の毒だ。人がまっ黒になって働いているのに、羨望の気持が摩擦を生じる一因となることもあった。

奈良橋庁舎

 一方、会社の発展にともない人口は増加の一途をたどり、小さく古びた村役場では対応できなくなった。村では、昭和十五年(一九四〇)会社の援助を受け、村の中央である奈良橋に木造二階建ての新庁舎を新築し移転した。「当時物資が統制されていたので、民間はもちろん官庁でも材料の購入が困難であった。軍需工場の日立航空機が、物資の入手を図り材料を支給して大和村役場を新しく建てた。」(古滝直衛談)

 戦争激化にともない、工場の従業員は大増員された。本村からも、青年学校の生徒、女子挺身隊員、従業員として一戸に一人ぐらいの割で多くの人が工場に勤めるようになった。」(p342~343)

 工場の規模などは次へ続けます。

(2015.10.16.記)

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