だいだらぼっち
 「これって、誰?」
「ヤー、お久しぶり・・・」

思わずビックリする像ですが、「大多羅法師」(だいだらほうし)「デエダラボッチ」「だいだらぼっち」の巨大な頭部です。このユーモラスな巨人法師が狭山丘陵の丸山・向山をつくり、また、わが内堀(村山下貯水池に沈んだ)の「デンドロの井戸」を掘った主人公です。村山上貯水池の北側、所沢市に接する慶性門の裏山に像の頭部が置かれています。

 

だいだらぼっち2

案内板には次のように記されています。

「大多羅法師は関東を中心として東日本一円に伝えられる大巨人のことです。
湧き水出現にまつわる水神信仰と深い関係があります。
藤ヅルでこしらえた籠で土を運んでいた時、ツルが切れて落ちて出来たのが富士山で足を滑らせたときはねあげた土が伊豆七島になったとかスケールの大きな話が多くあります。

多摩湖周辺にも大多羅法師の話は多く、武蔵村山市の丸山にある井戸は足跡と云われ、向山は富士山と同様藤ヅルの籠からこぼれ落ちて出来た山といわれています。また、湖底の村・内堀にも伝わっており、「デンドロの井戸」と呼ばれ、水が涸れたことがなかったと云われています。(後略)」

◎「デンドロの井戸」の周囲には大欅が立ち並び、通称「源氏」・「縄大尽」と云われる家であったとします。
これは、武蔵村山市に伝わるダイダラボッチの井戸の伝承の一環と思われます。本拠である武蔵村山市内では、神明ヶ谷戸~入り~赤堀~岸と狭山丘陵南麓の谷を縫うようにダイダラボッチの伝承が語られ、「地下水脈などと関係があるのかもしれない」とされています。内堀もまさにそのライン上にあり、一体をなすものと考えます。

 

入りのだいだらの井戸
武蔵村山市「入り」のダイダラボッチ井戸

ダイダラボッチは東大和市内では次のように伝わります。

「大昔、狭山の山に「大平法師(だいだらぼっち)」という大力無双の大男が棲んでいました。
ある時、だいだらぼっち、藤つるで山をしょって、のっしのっしと歩いてきました。ところが藤つるがプッツリと切れて、背中の山を落してしまいました。切れた藤つるは北の方角に投げ出され、それ以後、北には藤が生えても、南には一本も生えなくなったということです。

不意をつかれただいだらぼっちが、ぐっとふんばった両足の跡が大きな穴になり、水が湧き出て井戸になりました。かんばつの時も涸れることなく、人々は感謝して「でいだらの井戸」と名づけました。もう一つのでいだらの井戸は中藤の赤堀にあります。

平らだった原に突然出来上った山を、丸山、或は向山とよんでいました。丸山は何年か前に削り取られて姿を消し、今では幻の山となりました。水道が敷かれる前までは、ひでりの時など芋窪の人々も二斗樽を天坪で担いだり、リヤカーに四斗樽を積んだりして水を汲みに行ったそうです。そんな時は水を求める人達で長蛇の列ができたということです。」 (東大和のよもやまばなしp186)

◎大多羅法師は、ヒョウキンで、大きな下駄をはいて歩いたようです。立川市に次の伝承があります。

富士塚と弁天池

むかし。
でえだらぼうが、でっけえ下駄をはいて、あるいてきた。
富士見町のあたりまできたとき、下駄のはに、土がつまってしまった。
でえだらぼうは、足をふるって、土をおっこどした。その落ちた土が、
一丁目の富士塚だということだ。
土を持っていかれたほうは、池になった。それが、三丁目のがけの下の、弁天池だそうだ。(立川のむかし話p57)

◎だいだら法師は多摩川の縁から立川市内を通って、狭山丘陵へと歩いて来たようです。さて、それからどこへ行ったのでしょう?

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