ジカウイルス問題が浮上し、インフルエンザ・風邪がはやり、早くも花粉情報が気になる季節になりました。かって、東大和市周辺で流行ったのが「はしか」でした。
身近に医師が少なく、ほとんど病院がなかった頃です。はしかは命取りの病気でした。隣接する武蔵村山市に伝わる指田日記には、修験が祭壇を設け、お祓いをし、家族は千度参りをして平癒を願う様子が描かれています。しかし、「痘(とう)で死す」の言葉が並びます。
そのような時、東大和の村人たちに人気があったのが山口観音山門の仁王様の股くぐりです。『東大和市のよもやまばなし』は次のように伝えます。
「はしかがはやりだすと親たちは、子供を連れて山口観音へ参拝に出かけます。仁王様の股をくぐらせると、はしかを除けると言われていました。当時、はしかは、子供にとって時に命に関わることもある恐しい病気でした。
山口観音では、お坊さんが仁王門のしとみに棒を立てて開けてくれます。右側の阿形(あぎょう)の仁王様でした。赤ちゃんは坊さんが抱いてくぐらせてくれますが、物心ついてくるとこわい顔の仁王様は、はしかより怖(おそろ)しくてなかなかくぐれません。そばの店で焼く名物のおだんごが香ばしい匂いを漂(ただ)よわせています。親たちはこれを種にしていっしょうけんめい励まします。坊さんも力を貸してくれるのですが、泣き声は大きくなるばかりです。仕方なく着ているチャンチャンコ等をぬがせてくぐらせることもありました。日傘を身代りにした話もあります。
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吽形の仁王様
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阿形の仁王様
仁王門の前の左側の家は、雨店(あまだな)といわれ、今から三代前の人が雨宿りを兼ねただんご屋を開いていました。ここの焼だんごは有名で参拝客のいいおみやげになりました。また、武蔵村山市や東大和市の方から今の貯水池の山を越えて、所沢の市へ行く人が必ず腰をおろす休憩所でもありました。」(一部省略 p34~35)
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山口観音の全景
仁王門から石段を上がり観音堂本堂に向かいます。その右横に団子屋さんがあります。
股くぐりの後の団子はひと味違った事と思います。面白いのは所沢への道筋です。村山貯水池ができる前、南麓から湖底に沈んだ集落を経て、山口観音に達する幾多の道筋がありました。明治14年の迅速図でもはっきり辿れます。代表的な広域路として八幡神社東脇、豊鹿島神社西脇を通る道がありました。これらを通って身近な市場の所沢に往き来するとき、団子屋に腰掛けて一服する村人達の姿が目に浮かびます。(2016.02.10.記)
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