豊鹿島神社の本殿は、社殿の奥に鎮座します。わが市の誇りです。少ない中世建築物の中で、文正元年(1466)十月三日に創建されたことが明確だからです。得がたい室町神社建築物として高く評価され、東京都の有形文化財として指定されています。その創建を明らかにしたのが本殿に釘付けされていた棟札です。
創建棟札
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(出典 豊鹿島神社発行パンフレット)
ところが、この棟札、実に面白い謎解きに誘い込みます。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』、地元の杉本林志氏著『狭山之栞』(江戸末期から調査、明治9年発刊)に紹介されている棟札があります。いずれも記述に少差はありますが、ほぼ同じ事柄が記されているので『武蔵名勝図会』から紹介します。
『武蔵名勝図会』棟札
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(出典 慶友社 武蔵名所図会 p59)
この外に、神官宅に「天文十九年(1550)の棟札」が箱入りで保管されていました。
この三者から、従前は豊鹿島神社の創建を天文19年(1550) としていたこともありました。文正元年(1466)の棟札の写しは文字などが不明瞭で、保管された棟札に頼ったことによるものです。
平成5年(1993)に本殿の解体修理が行われました。その際に本物の棟札が下記の通り4枚発見されました。保管されていた棟札と合わせて、合計5枚となりました。
本殿解体修理時に発見した棟札
文正元年(1466)大旦那源朝臣憲光
武州多東郡上奈良橋郷
天正4年(1576) 細野主計殿 番丈衆十人御力合
武州多東郡上奈良橋郷
慶長6年(1601) 大旦那酒井筑前守 同 強蔵殿 参鴨久兵衛 同□太ろう □野善□□ □□□□衛門 木村□左衛門
武州多東郡奈良橋内芋窪
正保3年(1646) 大施主 酒井極之助重忠
武州多麻府上奈良橋郷
神官宅保管棟札
天文19年(1550) 大旦那 工藤下総入道
武州多東郡上奈良橋郷
これらの棟札から様々なことが読み取れます。
1文正元年棟札は創建の年代が明確になりました。大旦那は源朝臣憲光でした。
神社所在地は武州多東郡上奈良橋郷であることが初めて明らかになりました。
2天正4年棟札は後北条氏の支配下にあって、本殿の修理者が細野主計 番丈衆十人御力合であることが明らかになりました。
3慶長棟札は大旦那酒井筑前守 同 強蔵殿で、当時芋窪村に配属された徳川家臣の一人です。
地元では地頭と呼ばれ、家族とともに現地で統治し、江戸城へは、江戸街道を馬で通勤登城しました。
神社所在地が武州多東郡奈良橋内芋窪として、「芋窪村」の存在が明らかになりました。
地頭と参鴨(三鴨)以下の村人達が尊崇する神社修復に関わったことが明らかになり、頬が緩みます。
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(出典 豊鹿島神社発行パンフレット)
しかし、次のような様々な新たな謎解き問題をもたらせました。
謎解きは、
1文正元年棟札は狭山丘陵南麓に「武州多東郡上奈良橋郷」の存在が明らかにしました。従前の「村山郷」「宅部郷」とどのような関係にあるのか?
2地誌類に書かれている天文三年の棟札が今回の解体修理の時には発見されませんでした。 その行方が気になります。
本殿修理工事報告書は次のように分析します。
・地誌類が紹介する「天文三年の棟札」は写しである。
・記載内容は、天文19年のものと同種で、年号の写し違いである可能性が極めて高い
として、天文三年棟札は天文十九年棟札の写しと解釈しています。
3天正四年棟札の細野主計殿 番丈衆十人御力合とは誰か?
4天文十九年棟札の大旦那 工藤下総入道とは誰か?
などなどです。これらの解明を本物の棟札達が求めています。
また、権威ある地誌も修正が迫られることに、本物の棟札の凄さに圧倒されます。
(2016.03.28.記)
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