要石に関しては江戸時代の見聞の記録があります。
  寛政7年(1791)9月30日~10月12日にかけて、江戸青山の住人清痩園主人=石子亨が妻の父親である大久保狭南を訪ねて清水村(現・東大和市清水)に来ました。高尾山や青梅、所沢方面を遍歴して、克明にその記録を残し「武野遊草」としてまとめました。
武野遊草
 武蔵野文化協会 武蔵野 第62巻 に収録された武野遊草
 10月11日、最後の日程、所沢市山口方面を廻って清水村に帰村しました。その夕刻です。清水村の名主・五十嵐氏の要石を見に行こうとの誘いにのって出かけます。現代文に意訳します。
 「・・・夕陽の頃、清水に帰ると、五十嵐氏が来て、芋窪の鹿島の宮へお参りして、要石を見ようではないかと誘われた。そこで、また、清水を出て、高木、奈良橋などの村を過ぎて、蔵敷村で道を原の中に進んだ。十四~五町(1.6キロ)ほど行くと、塚があった。方十間(18メートル四方)ばかりもあるだろうか。
 古松が二株生えている。樹の下は茨が生えて、勢いよく茂った中に、その石はあった。形は図に描くとおりである。石は地下に埋まり、いたって深いと村の老人が云う。中古、要石とは知らず、このように畑の中央にあるので耕作の妨げとなり、地元の人々が集まって力を尽くして掘り上げようとしたが、石の根は下に行くほどますます広大で掘り上げることができず、空しく止めたという。
武野遊草要石
武野遊草の著者が描いた要石
 石を見終わって、原から十二町(1.2キロ)下って村落に入る。鹿島明神の社がある。朱印十三石、神主を石井左門という。社前に樫の古木あり、周囲五間(9メートル余)という。この村古名は「井の窪」と云ったが、今は、「芋窪」と云うそうだ。・・・、薄暮、清水に帰る。清水より芋窪まで一里あまりである。」(武蔵野文化協会 武蔵野 第62巻 通巻305号p40~41)
◎この記録により、1791年当時、要石の場には四角い「塚」があったことがわかります。周辺は江戸時代初期から、畑地として新田開発されて居ます。その中で、古い松の木が2本植えられ、特別の場所として区切られていたようです。一面の畑の中に際立っていたことでしょう。茨が覆っていたことは、当時の武蔵野の植生にヒントを得ます。
 武野遊草コース
◎当時の道を復元してみました。現在とはだいぶ様子が違いますが、要石は芋窪街道と四街道・中藤道(中藤村・武蔵村山市から江戸への主要な道路)が交差する近くにありました。武野遊草の記事はそこに18メートル四方の「塚」の存在を貴重な証言として残してくれました。『狭山之栞』が指摘する庵室と関係があったのかも知れません。
◎要石が面する道は「芋窪街道」(途中から多摩都市モノレールの道に接続)と呼ばれます。享保年間(1716~35)に、芋窪村の人々が現在の立川市栄町に「芋窪新田」を開発するため、日夜通った道です。村人達は要石の塚に何事かを託しながら往き来し、厳しい開発の日々を過ごしたものと推察されます。(2016.04.14.記)