しし穴の話 (東大和のよもやま話)
タヌキやキツネは化かされたり化けたりして里人と交流します。ところが、いのししは少し違ったようです。『東大和のよもやま話』は次のように語り出します。
モニュメント・いのしし(郷土博物館前)
「狭山丘陵には昔、猪が多く農作物が荒らされて村の人達は大層困ったそうです。
記録によると、安永四年(一七七五)に大がかりな猪退治が行われました。東は久米川村から西は箱根ヶ崎村まで狭山丘陵一帯にたくさんの落し穴を掘って、竹のほら貝を吹きならしながら、竹槍を持った大勢の人達が勢子(せこ)になって狩立てました。戦果は上々で二十頭あまりが仕留められ、中でも村人から恐れられていた「大隠居」というあだ名をもった大猪が、清水村の三右衛門という人によって討止められたということです。
この時の記録には蔵敷にしし穴を掘ったという記載はありませんが、蔵敷にも次のような話があります。昔、御岳神社と奈良橋の八幡様の間の谷を”千光谷ツ”といいました。そこに千光坊という修験のお堂がありました。傍に墓地があって埋葬のたび毎に、山を越えて北のねずみ沢の方から猪が来て掘り返してしまうので、困った村人達は猪の通り道に落し穴を掘ってその害を防いだと伝えられています。
(落とし穴の作られた蔵敷・千光谷ッ。現在は市立狭山緑地として保存されています。)
土が崩れ落ちたり、草木が生い茂ったりで話を聞いた人でなければ見落してしまうような窪みですが、子供の頃、その辺を遊び場にしていた方の話では、貯水池の出来る頃でもまだ、かなり大きな穴だったそうです。今でいえば「鳥山」の北側で、東京都の水道局用地内になります。最近まで他にも二つほど残っていたということです。」(p165~166)
蔵敷の人々は、ついに墓地を上図のように移転しています。
江戸時代、狭山丘陵周辺は尾張徳川家の鷹場に指定されていました。そのため、猪や鹿など獣類が保護される結果となり、農作物に被害を及ぼすようになりました。村人達はいろいろ策を練ります。その一つが「しし穴」でした。しかし、厳しい統制があり、農民達は苦労しました。長くなるので別に記します。
(2015.10.09.記)
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