道路に、自動車の往来がなく、主に歩く場所だった頃のことです。道筋が三角形に交差するところがありました。そこには、お地蔵さんや幣束がまつられていました。最近では道幅が広がり、歩道がつくられて、石仏や石塔は神社やお寺にうつされて、幣束も見ることが出来ません。
そんな場所での出来事を『東大和のよもやまばなし』は、次のように伝えます。
「Y字形の三角辻には悪い神様がたくさん集まっていて、通る人やそこに住む人になにかとわるさをするものだ、と昔から言われていました。これを「辻しようげ」と言っていました。ですから三角辻は利用価値が低く、たいていは石仏、石塔などが建っていたり、捨て場になったりしたものでした。
一年間の厄払いをした幣束やご用済のお札が捨てられていて、風雨にたたかれてとけかかり、なにやら陰湿な雰囲気をかもし出していました。夕暮時の辻はことさらにうす気味悪く恐しいものでした。
「辻しようげにたかられるといけないから、辻は足早に通りなさい」
と常日頃、母親にいわれているので子供達は、たかられないうちにと目をつぶって一目散に駆けぬけました。それでも運が悪いのか、神様の気に入られたのか、中には「しようげ」にたかられて虫を起したような状態になって、親をびっくり仰天させたものでした。
五日市に、たかった「しようげ」を抜いてくれる人がいましたので、そんな時は早速、自転車の荷掛に子供を乗せて連れていきました。三十代の男の人で、特に祈祷を職業としているわけではないのですが、効き目がると評判でした。数珠(じゅず)をかけて何やら云いながら拝むと不思議に「しょうげ」が抜けて、また元気な子供に戻ったものでした。」(『東大和のよもやまばなし』p47~48)
東大和市内には、現在もいくつかの三角辻があります。しょうげの話はなくなり、御幣もあげられていません。プライバシーの問題もあり、代わりに、蔵敷の庚申塚を紹介します。
この地は、江戸時代には村のはずれで、昭和20年代まで、人家から離れた原中にぽつんと塚がありました。道路は左側が江戸と村山(武蔵村山市)を結び、右側が砂川(立川市)を経て八王子方面への主要な道筋でした。
そのため、この三角辻には庚申塚が築かれました。石塔として、湯殿山大権現祈願塔、馬頭観音、庚申塔、西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔などがまつられて居ます。おそらく、子供たちには「しようげ」か、何か恐ろしげな話が語られたものと思われます。
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