東大和市に残る姨捨山伝承です。
 村山貯水池に沈んだ地域に伝わりました。二つ池から北の方角になります。谷ッが大きく入り込んだ高台を大筋端と呼びました。現在、湖畔一丁目に大筋端公園として小字名が残されています。その北側、貯水池内に塚は現在もあります。
行人塚1
村山市下貯水池大筋端周辺
 『東大和のよもやまばなし』から引用します。

 「行人塚

 湖底に沈んだ村の南側に続く狭山丘陵の中に、大筋端という所があり、その山の中に塚がありました。村の人びとはこの塚を「行人塚」と呼んでいました。

 昔、ここは足腰の立たなくなった老人や、行きだおれの病人達が、静かに死を待つ場所であったという言い伝えがあります。江戸時代まで、ここには風化された人骨があったとか、夜など死人の怨念が人魂になって飛ぶのを見たとか言う人もいたそうです。

 いつ頃のことかさだかではありませんが、元禄の頃といわれていますが、一人のお坊さんがここを通りかかり、あまりに悲惨な様子を悲しみ、里人達にその供養をたのみました。
 「私が打つ鉦(かね)の音を聞いたら、里人よ山にのぼってきて死体をねんごろに葬ってほしい」
と。それからというものお坊さんの打つ鉦の音が山合いにひびくと、里人達は山に登って死人を手厚く葬るようになりました。

 それから誰いうとなく、この塚のことを、「行人塚」と呼ぶようになったそうです。この話は親から子へ、子から孫へと言い伝えられてきたのでしょう。明治になってからもまだ人魂が出るとか言って、あまり人が近寄らなかったようでした。
 現在でも行人塚と思われる塚が、下貯水池の南側中央あたりにそれらしい形で残っています。」

 行人塚2(クリックで大)

 狭山丘陵を構成する各地には丘陵内に同様の塚が多くあります。それが、大筋端では他にない、姥捨てに近い内容の伝承となっています。しかも、場所は里山で、人家からそう遠くありません。村人達の往来も充分に考えられます。そのような場所に、何故この話が伝わるのか不思議です。参考のため、狭山丘陵全体の中で、位置を表しておきます。(2016.02.12.記)

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