豊鹿島神社の創建について、神社パンフレットは江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』記載の社伝を引用しています。その原文は次の通りです。
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左 雄山閣版『新編武蔵風土記稿』 右『武蔵名勝図会』
『新編武蔵風土記稿』
「鹿島神社、社地、一萬三千六百六十四坪、御朱印十三石、本社六尺上屋を設く、拝殿二間に五間半、幣殿二間に二間半、
社傳を閲るに、慶雲四年の鎮座にて、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神とし、神体は龍王丸とて、則武甕槌命の太刀なりしといへど、神主も拝することを得ざるよし、
社を造立ありしは、天智天皇第四姫官なりしとも、又、蘇我山田石河麻呂たりしとも記し、この外疑ふベきことをも記したれば、此社傳もいちいちには信すベからず、さはあれ、後にのせたる文正・天文等の棟札あるをもて見れば、旧きよりの鎮座なりしことは知るべし、」
『武蔵名勝図会』は、
「社伝云う、当社は慶雲四年(七〇七)丁未 武蔵国へ鬼神来る時、常陸峯にて鬼神を鎮めたまう。今、鹿島之艮(うしとら=北東)之方二町に六本松がある。御陣場と云い伝う。・・・。今、祭礼に獅子舞有。それ、獅子の頭三面なるを用ゆ。是は鬼神の頭三面にして、身長一丈六尺ありし鬼神なり。それを鎮め給う古例なりとぞ。」
とします。
祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で常陸との関係を示唆します。現在、豊鹿島神社と呼ばれますが、明治以前の記録では「鹿島大明神」(文正元年(1466)棟札、正保4年(1647)日待灯籠)、「鹿島宮」(宝暦10年(1760)狛犬)、鹿島大神宮(『武蔵名勝図会』文政6年・1823)と呼ばれていました。いずれも常陸一宮の鹿島神宮との関係を示します。
これらのことから、『東大和市史資料編8』では
「武神である鹿島の神が祀られ信仰の対象とされた背景には戦いの守護が必要とされる状況があったものとも推測され、当社は中世武士団と深い関わりを有していたと考えられている。」(p15)
とします。明治になり「豊鹿島大神」を経て「豊鹿島神社」に名称の変更をしています。残念ですが、「豊」が付いた日時は不明です。
石川の地
『新編武蔵風土記稿』は創建伝承に係わった人物として蘇我山田石河麻呂をあげます。また、『武蔵名勝図会』は、「村内の小名に石川という地あり。村の北方にて、狭山続きの山なり。広さ二町程なり。往古、ここに石川入道というもの居住せし跡なりと云う。馬場の跡あり。年代不知。」としています。
慶雲四年(707)は別として、村山貯水池の湖底に沈んだ古村にこの伝承は伝わり、地名も早くから「石川」を名乗っていたようです。柳瀬川の支流の最上流にあたり、古い水田がある地域でした。「石川の七池」と呼ばれるほど池が多く、水田用の溜池と考えられます。昭和51年(1976)、湖底の水が抜かれたときの発掘調査の際、弥生時代の遺跡を探しましたが、確認されませんでした。
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石川の地でまつられたとされる「白山碑」が豊鹿島神社境内に遷されています。天文三年(1534)十一月三日の年銘と願主に「石川麻呂」の名が刻まれています。
しかし、この年号は、後に記す、本殿に関する、年号の書き違えではないかと推定される棟札の年号と合致し、確実な資料とは言いがたいようにも思えます。
藤原、武田の落ち武者などの断片的な言い伝えも聞きました。いずれも古老間のまた聞きの昔話として受け止めました。
現本殿の創建棟札
『新編武蔵風土記稿』に、「文正・天文等の棟札あるをもて見れば 」の記事と別添の二枚の図があり、『武蔵名勝図会』も同様の図を載せています。
文正の棟札は現本殿の解体修理の際に実物が発見されました。その年号は文正元年(1466)十月三日で、本殿創建時のものとされます。
大旦那として「源朝臣憲光」の記名があり、石川氏の消息は不明確です。
さらに、地名として、上に記した両著に欠落している「上奈良橋郷」の郷名が明確に記されています。
もう一つの天文の棟札については問題が残ります。次に続けます。
(2016.03.26.記)
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