東大和市の現・狭山地域が後ヶ谷村(うしろがやむら)と呼ばれていた江戸時代の話です。
杉本家に伝わる貴重な古文書に宗門帳があり、当時の家族構成がわかります。
宝永4年(1707)、享保14年(1729)、天明2年(1782)、寛政6年(1794)、天保12年(1841)、明治5年(1872)
寛政6年までは中核となる家族構成は4人から6人(年寄り夫婦、若夫婦、子ども)、以降、若干変動します。他市と比べても江戸時代普通の家族構成と思います。
ところが、天明2年(1782) から天保12年(1841) にかけて一人暮らしの世帯が現れてきます。これは何なのだ?なぜ、このような状態になったのか不思議です。聞き回っているうちに少し教えられてきました。この人達は多くが30才以上の男の独身者という分析です。古老は云います。
「おんじーと云ってな、分家してもらえず、嫁もとらずに、親の家のそばに、納屋とか小屋をゆってな、住んでたーだ」
「結婚しない一人もの?」
「そうよ、若けえ内は、年季奉公や外稼ぎに出ていたのが、年くってきて、そうもいかなくてな」
「じゃー、おんばーは居なかったんですか?」
「そりゃー、聞かねえな・・・」
丁度、この時期は天候不順で飢饉となり飢え人などが出て、当時の村は代官に年貢の延納、食料の拝借願いを出しています。わからないことだらけです。同じような現象について、是非、教えて下さるようお願いします。
(2016.05.28.記)
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