何となく天候異変が気になります。何億年かの周期で起こる地球の宿命か?そんなことはない、お前様たち人類が原因なのさ、と云われているようで気詰まりです。案外、当たっているのかも知れません。
それはともかく、まあ、聞いて下さい。東大和市に、村山貯水池が出来たことによって、雹が降らなくなったとの言い伝えがありますから。
「この辺は雹の多かった所のようです。雹が降れば作物が被害を受けます。農家にとっては大変なことですから降らないように代表が榛名(はるな)神社までお参りに行きました。
雹は榛名や戸隠(とがくし)の方から来るといわれ、空が急に暗くなると降ります。地域的に集中して降ったようです。
明治の終り頃、二十センチメートル位つもる程降ったことがありました。畑で大きな雹に降られ、頭をかくすためにこやし桶(おけ)をかぶった事もあったそうです。麦はとび散って全滅です。土も冷えてさつま芋の苗を植えても葉が赤くならず、芋も太りませんでした。草屋根のくさった所に雹が当り、穴があいて雨もりするようになってもふく草もとれず、屋根にむしろなどをかけてしのいだ事もありました。
雹災資金を借りたのもその時です。何人か連帯でお金を借り、何年かかかって返しましたが一人が返せないと皆で払わなければならず、年限が来ても返すのは大変なことでした。
昭和になってからも奈良橋辺で沢山降り、麦がちぎれた事がありました。いつも麦やさつま芋が被害を受け、たたかれた青葉が窪(くぼ)にたまりくさくて気持の悪い臭いの中で、子供は長靴をはいて歩き廻りました。雹荒れといいました。
いろいろ雹には悩まされましたが、貯水池が出来て水がたまると気流の関係でしょうか降らなくなったそうです。(東大和のよもやまばなしp55~56 一部省略)
東大和市内では、農業神の信仰が厚かったこともあり、各地域に榛名講、戸隠講が結ばれていました。その名残は豊鹿島神社の奥に大きな石碑となってまつられています。芋窪地域の戸隠講中によるもので、昭和7年(1932)4月、143名の名が刻まれています。
講は昭和にほとんどなくなりました。代表者が直接、榛名神社、戸隠神社にお参りする代参講と地元に神主さんをお呼びする日待講がありますが、東大和市内では、日待講が多かったようです。
平成19年、芋窪地域で、戸隠神社から神主さんが招かれ、豊鹿島神社の社務所に祭壇をもうけて日待講が執り行われました。祈願の後、それぞれがお札を頂いて各家におまつりしました。これが最後になるかも知れません。
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