東大和市・芝中団地(蔵敷)の中程に位置する芝中・中央公園に
 「オヤ・・・?」
と首をかしげるモニュメントがあります。
繭1
 モニュメントの下の地面を見るとポコリ、ポコリと「まゆ」が半分顔を出しているので、
 「解った!」
 「そうか!」
 と頷きをもらえます。「繭」(まゆ)と名付けられています。
繭2
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 タイトル:繭(まゆ)
 場所:東大和市芝中中央公園
 設置日:平成4年10月26日
 材質:ブロンズ、黒御影石
 サイズ:H2000×W700×D700センチメートル

(作品紹介)
 「昔、東大和市の農家では、養蚕(ようさん)が盛んに行われていました。養蚕とは、蚕蛾(かいこが)の幼虫である蚕が作った繭(まゆ)を糸にして売るために蚕を飼育することです。
 昔は、農作物だけでは収入が少なく、不作だと半年や一年は苦しむこともあったため、養蚕は農家にとって貴重な収入源にもなっていましたので、蚕のことを「オコ様」とか、「カイコ様」と呼んでいました。

 そのため畑には蚕の餌になる桑が一面に広がっていました。蚕を飼っている農家では、特に七月の下旬から八月二十日頃までは初秋養蚕で忙しく、九月は晩秋養蚕で大わらわでした。」
 昔と云っても、東大和市域内の村々では、江戸時代から木綿織りと養蚕が行われていました。しかし、モニュメント「繭」が語る養蚕は、大正から昭和にかけて、「村山大島」として絹織物の生産が急増した時期のことと思われます。
昭和13年大和村縮図800
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 昭和13年(1938)の大和村全図を見ると、狭山丘陵南麓の居住地を除いて南は一面に桑畑が広がっています。村山貯水池内でも斜面には桑畑が連なっていたと伝えられます。いかに養蚕が盛んであったかが偲ばれます。
 しかし、養蚕は蚕を育て、繭をとるまでの厳しい作業の積み重ねで、生糸や織物のように付加価値がつかず、当時の農家の皆さんは一番苦労が多い部分を担ったことになります。その作業を『多摩湖の歴史』は次のように記します。
 
 一月、山林の落葉(ナラ・クヌギ・マッ)を運び、風呂湯をかけて腐らせる。
 二月、堆肥の切りかえし。人糞をかけて積み込む。反当り300~350貫目桑畑に入れる。
 三月、中旬に春蚕用20本ほどを残し、他は秋蚕用に枝を切り取る。
 四月、中旬に夏草取りにそなえて、桑の根本に盛土する。
 五月、春蚕掃立(はきたて)は8日頃が目標。晩霜などの年は数日遅れ。桑園の除草をする。
 六月、掃立後、35日位で上蔟(じょうぞく)。
   蔟(まぶし)はワラを折ったものを、平らな竹篭のようなものに細縄でつける。7日目に収繭する。
 七月、中旬に初秋蚕掃立。気温が高いので、21日~22日で上蔟する。給桑は忙しい。桑園2回除草。
 八月、桑園施肥。
 九月、3日頃初蚕掃立。28~30日で上蔟。
 一一月、中旬から下旬にかけて、寒さから桑の木を守るため中耕し、根の土をウネの間にもりあげる。
 (p234 文中に専門用語が並び、説明をしていませんが、あまりにも長文になるのでお許し下さい)

 休む間もない、忙しくキツイ作業の連続であったことがわかります。
 
 奈良橋の八幡神社、男坂を上り詰めたところの大欅の根元に見逃してしまいそうな祠がまつられています。
 小さな祠で、現在は祠が新しくなっています。かっては、素朴で、蠶影社(こかげしゃ)と刻まれていました。厳しい生活環境の中で、まゆが無事に育つように精一杯の願いを込めてまつったであろうことが偲ばれます。
蠶影神社2
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 モニュメントの置かれた芝中・中央公園からは30分ほどのところです。お訪ね頂きたくご案内する次第です。
 また、『東大和のよもやまばなし』には、「村山絣」「愛染様」「機場(はたば)遊び」が採録されて、絣の考案者、糸染め、織り手などについて伝えます。
 村山貯水池下堰堤の広場には、綿織物の時代を表すモニュメント「木綿絣」が置かれています。
 縞(しま)、絣(かすり)などの画像が紹介できませんが、現在、資料を集めています。集まり次第掲載します。
(2016.03.08.記)