豊鹿島神社の境内には多くの神々がまつられています。
 「あ、安産の神だ!」
 「商売繁盛だって!」
 それぞれ、願いを叶えて下さる事柄が表示されています。
 また、古くから境内にまつられた神、明治維新に際してこの地に遷られた神、など、経緯や由緒を訪ねる奥深さがあります。
 長くなるので、このページでは現在の状況を境内の東側からご案内します。
 手水舎の向こうに鳥居があります。紅葉稲荷神社への参道です。
末社11
  参道を進むといくつかの鳥居を経て稲荷社の前に出ます。
 末社12紅葉稲荷神社
 (豊受姫命=とようくひめみこと)産業振興、商売繁盛
 もとは、青梅街道沿いにありました。
 境内に戻ります。本社殿の背後は杉山になっていて、石段を登ると奥の宮へと続きます。
 その道筋に次の神々がまつられます。
末社13
 拝殿から右に向かいます。
 末社14 左から愛宕神社、白山神社、滝沢明神社があります。
 白山神社(伊弉那岐命=いざなぎのみこと)延命長寿、五穀豊穣
 愛宕神社(火産霊命=ほむすびのみこと)火難消除
 滝沢明神社
 石段を登ります。三社がまつられています。
末社15
 稲荷社                産泰社               御嶽神社
 稲荷神社(豊受姫命=とようくひめみこと)産業振興、商売繁盛
 産泰社(木花咲耶姫=このはなさくやひめ)安産、家内隆昌
 御嶽神社
 本社殿の左側にまわります。日吉神社がまつられています。
 末社30日吉神社(大山昨命=おおやまくいのみこと)福徳開運
 以上が現在の姿です。
 「でも、頂いた資料の『新編武蔵風土記稿』にある「子ノ神祠」はどこにいらっしゃるのですか?」
 「芋窪新田に勧請されている「愛宕神社」は?」
 さっそく、質問が寄せられます。いろいろな経緯を経て現在に至っているだけに、不明なことが多いです。
 基本的な資料として『新編武蔵風土記稿』「明治三年書上」『狭山之栞』「明治三十三年神社明細帳」の記事を付記します。
(1)『新編武蔵風土記稿』
末社として
 白山祠
 子ノ神祠
 山王祠
 をあげ、「本社の左右にありいずれも僅かなる祠なり」としています。
(2)明治三年十一月芋窪村鎮守書上
 明治3年(1870)11月、新政府は大小神社の規則を制定しました。そして府・藩・県に対して、「管内の神社について委細取調べ、十二月中に提出せよ」との命令が出されました。その時に提出された「神社取調書上」には、次の神々が書き上げられています。(里正日誌11p232)
摂社
 住吉社
  八雲社
 熊野社
 愛宕社
末社
 白山社
 稲荷社
 子神社
 摂社の各社は次の旧所在地が考えられます。
 住吉社 旧所在地 村山貯水池に沈んだ石川
  八雲社 旧所在地 神明社として、村山貯水池に沈んだ石川
 熊野社 旧所在地  西谷ッ熊野山
 愛宕社 芋窪新田・現立川市栄町周辺開発の時、開発者が地元に勧請している
(3)狭山之栞(地元の歴史家杉本林志氏著、幕末から明治14~15年まで調査)
 神祠
  子神、石神、滝沢、山王、弁天、稲荷、大六天、羽黒、神明、熊野、愛宕
  白山神社については村山上貯水池に沈んだ「慶性院地内にあり」としています。
(4)神社明細帳(明治33・1900~35年・1902)
  氏子総代が北多摩郡長に提出
境内末社
 白山神社愛宕両社 相殿 間口二間 奥行二間五尺 祭神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)由緒不詳
 日吉神社 一間三尺四面 祭神・大山昨命(おおやまくいのみこと)由緒不詳
 稲荷社 三尺四面 祭神・豊受姫命(とようくひめみこと)由緒不詳
 愛宕社 二尺四面 祭神・火産霊命(ほむすびのみこと)由緒不詳
 個別の神々については、ページを改めます。(2016.04.03.記)