豊鹿島神社の境内には多くの神々がまつられています。
「あ、安産の神だ!」
「商売繁盛だって!」
それぞれ、願いを叶えて下さる事柄が表示されています。
また、古くから境内にまつられた神、明治維新に際してこの地に遷られた神、など、経緯や由緒を訪ねる奥深さがあります。
長くなるので、このページでは現在の状況を境内の東側からご案内します。
手水舎の向こうに鳥居があります。紅葉稲荷神社への参道です。
参道を進むといくつかの鳥居を経て稲荷社の前に出ます。
(豊受姫命=とようくひめみこと)産業振興、商売繁盛
もとは、青梅街道沿いにありました。
境内に戻ります。本社殿の背後は杉山になっていて、石段を登ると奥の宮へと続きます。
その道筋に次の神々がまつられます。
拝殿から右に向かいます。
白山神社(伊弉那岐命=いざなぎのみこと)延命長寿、五穀豊穣
愛宕神社(火産霊命=ほむすびのみこと)火難消除
滝沢明神社
石段を登ります。三社がまつられています。
稲荷社 産泰社 御嶽神社
稲荷神社(豊受姫命=とようくひめみこと)産業振興、商売繁盛
産泰社(木花咲耶姫=このはなさくやひめ)安産、家内隆昌
御嶽神社
本社殿の左側にまわります。日吉神社がまつられています。
以上が現在の姿です。
「でも、頂いた資料の『新編武蔵風土記稿』にある「子ノ神祠」はどこにいらっしゃるのですか?」
「芋窪新田に勧請されている「愛宕神社」は?」
さっそく、質問が寄せられます。いろいろな経緯を経て現在に至っているだけに、不明なことが多いです。
基本的な資料として『新編武蔵風土記稿』「明治三年書上」『狭山之栞』「明治三十三年神社明細帳」の記事を付記します。
(1)『新編武蔵風土記稿』
末社として
白山祠
子ノ神祠
山王祠
をあげ、「本社の左右にありいずれも僅かなる祠なり」としています。
(2)明治三年十一月芋窪村鎮守書上
明治3年(1870)11月、新政府は大小神社の規則を制定しました。そして府・藩・県に対して、「管内の神社について委細取調べ、十二月中に提出せよ」との命令が出されました。その時に提出された「神社取調書上」には、次の神々が書き上げられています。(里正日誌11p232)
摂社
住吉社
八雲社
熊野社
愛宕社
末社
白山社
稲荷社
子神社
注
摂社の各社は次の旧所在地が考えられます。
住吉社 旧所在地 村山貯水池に沈んだ石川
八雲社 旧所在地 神明社として、村山貯水池に沈んだ石川
熊野社 旧所在地 西谷ッ熊野山
愛宕社 芋窪新田・現立川市栄町周辺開発の時、開発者が地元に勧請している
(3)狭山之栞(地元の歴史家杉本林志氏著、幕末から明治14~15年まで調査)
神祠
子神、石神、滝沢、山王、弁天、稲荷、大六天、羽黒、神明、熊野、愛宕
白山神社については村山上貯水池に沈んだ「慶性院地内にあり」としています。
(4)神社明細帳(明治33・1900~35年・1902)
氏子総代が北多摩郡長に提出
境内末社
白山神社愛宕両社 相殿 間口二間 奥行二間五尺 祭神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)由緒不詳
日吉神社 一間三尺四面 祭神・大山昨命(おおやまくいのみこと)由緒不詳
稲荷社 三尺四面 祭神・豊受姫命(とようくひめみこと)由緒不詳
愛宕社 二尺四面 祭神・火産霊命(ほむすびのみこと)由緒不詳
個別の神々については、ページを改めます。(2016.04.03.記)
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