「どうして、こんなに沢山の神社があるのですか?」
 「講がよりどころとした神様は、はっきりしているんですか?」
  立て続けに難問ばかりです。ともかく、わかってることを記します。
1紅葉稲荷社
末社21
 祭神 豊受姫命=とようくひめみこと 産業振興、商売繁盛
 現在は豊鹿島神社境内にまつられていますが、明治初年まで青梅街道沿いにありました。その根拠は
・『新編武蔵風土記稿』に「高札場」鹿島神社の門前にあり
・里正日誌の著者である杢翁の記録に「高札場」芋窪には私領と御料所とありて、高札は紅葉稲荷の側に貯穀箱と倶にありき
 とあります。この両方の記事から紅葉稲荷は青梅街道沿いにあったことがはっきりします。
 また、地元の方のお話では、表参道の東側から少し離れて、青梅街道北側にあったとされます。
・明治初年に遷られ、紅葉稲荷社の称号は旧地の時からとされます。
2白山神社
 普段は祠の扉が閉ざされていますが、祭礼の場合など扉が開かれることがあります。
 その時、祠の中に石碑があることがわかります。
末社22
左愛宕神社   右白山神社
 明治33年(1900)神社明細帳に
 白山神社愛宕両社相殿 間口二間 奥行二間五尺 祭神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)由緒不詳
と記されています。
 祠の中の石碑には、下図のように刻まれています。
 拓本は東大和市史資料編8p21にあります。
末社23
東大和市生活文化財調査概要報告書p15
 正面の年号は  天文三年十一月三日(1534)
 右側面の年号は 文化四年二月(1807)
 で、正面が白山大権現の勧請、右側面が碑の建立日と推定されています。名前が刻まれている関係者は地元の方の先祖です。
 天文三年(1534) の頃、この地域は武蔵へ進出してきた後北条氏の支配下にありました。しかし、氏綱の勢力は安定せず、山内上杉氏や三田氏の動きが敏感に地域へ影響している時期でした。
 『狭山之栞』は、村山上貯水池の湖底(石川の地)に沈み、現・芋窪六丁目に移転した慶性院の地内に白山神社があった事を記しますが、この白山神社(大権現)が該当するかどうかは不明です。
3愛宕神社
 愛宕神社(火産霊命=ほむすびのみこと)火難消除
 明治33年神社明細帳には
・白山神社愛宕両社相殿 間口二間 奥行二間五尺 祭神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)由緒不詳
・愛宕社 二尺四面 祭神・火産霊命(ほむすびのみこと)由緒不詳
 と二社が存在したことが記されています。
・現在は「二尺四面」の祠を持った愛宕社は神社境内にはありません。
 愛宕神社については、江戸時代中期に芋窪村の人々が現立川市栄町付近に新田開発を行なったとき、その地に親村から愛宕神社を勧請したことが伝えられます。現地に新しく愛宕社が建造されています。これは江戸時代のことであり、明治33年神社明細帳記載の愛宕神社とすることはできないと考えます。
4滝沢明神社
末社24
 白山神社愛宕両社相殿と並んで右側に祠があります。現在の村山貯水池管理事務所の付近にまつられていました。村山貯水池建設に伴い、大正期にその地から、遷ってきました。
 祭神は不明です。祠の中に、笏(しゃく)を膝の上にたてた座像と下の銘文が刻まれた石碑があります。
末社25東大和市生活文化財調査概要報告書p15
 不思議なことに、この銘文は神名と正面の文正元年(1466)十月三日を除いて、関わった人々は上記の白山大権現と同じ人名が刻まれています。また、文正元年(1466)十月三日は豊鹿島神社本殿の創建棟札に書かれた年月日と同じです。
 石碑の作られた文化四年(1807) 二月には、①先の白山大権現、②村山貯水池に沈んだ石川にまつられた雷大明神、③この滝沢明神の三碑が同時に作成されています。
 まだ、解明されていませんが、この年に豊鹿島神社周辺でこれらの碑を造立し、豊鹿島神社の崇拝を強める何らかの動きがあった事を推測させます。
5稲荷神社、産泰社、御嶽神社
 本社殿の右側の石段を上がると稲荷神社、産泰社、御嶽神社の三社がまつられています。
稲荷社
末社27
 稲荷神社(豊受姫命=とようくひめみこと)産業振興、商売繁盛
 詳細は不明です。
産泰社
末社28
産泰社(木花咲耶姫=このはなさくやひめ)安産、家内隆昌
 武蔵村山市に伝わる指田日記に、頻繁に「産泰日待」が行われた記事が残されています。豊作、安産を願っての女衆の集まりで、飲んで食べての食事会、時にはホッピキというくじ引きのような賭け事が行われていました。
 東大和市の場合、ホッピキはお正月の14日、「繭玉」の「女日待」の時に行われた話が「ほっぽきの話」として伝わります。しかし、現在のところ「産泰日待」については把握されていません。ここに産泰社の祠がまつられていることからすれば、何らかの講、グループが結ばれていたはずで、残念です。
御嶽神社

末社29
 神名が明らかではありません。芋窪地域の講の関係から武州御嶽神社(青梅)と思われます。東大和市地域では、五穀豊穣、養蚕、火盗除を願っての講の結成が盛んに行われました。代参講でほとんどの村民が講を形成し、代表者が選ばれて御嶽参りをして、村人にお札を配る方法でした。芋窪地域では東組、中組、原組が形成していました。
 東大和市域で古い講は「宅部講」で、宝暦元年(1751)の記録があります。
6日吉神社
 本社殿の正面向かって左側に日吉神社がまつられています。

末社30
 日吉神社(大山昨命=おおやまくいのみこと)福徳開運
 日吉神社については江戸時代の地誌、明治3年の書出には記載がありません。
 明治33年神社明細帳には
・日吉神社 一間三尺四面 祭神・大山昨命(おおやまくいのみこと)由緒不詳と、存在が明らかになります。
・一方で、山王神社の記載がありません。
 このため、『新編武蔵風土記稿』の記事から次のようにも考えられます。
・『新編武蔵風土記稿』は末社として「白山祠 子ノ神祠 山王祠」をあげ、「本社の左右にあり」としています。
 白山祠は現在も右側にまつられています。子ノ神祠 山王祠が不明です。
・昭島市に日吉神社があります。もともとは山王大権現社と称していました。
 明治2年(1869年)の神仏分離によって、日吉神社と改名しています。
 この例から、豊鹿島神社境内の場合も、いつの時代にか『新編武蔵風土記稿』が記す「山王祠」が現在の「日吉神社」になったとも考えられます。
 まだまだ、謎に満ちています。(2016.04.04.記)