東大和市の歴史
『新編武蔵風土記稿』に描かれた東大和の村々
江戸時代末、東大和市の村々はどのような姿をしていたのか? 幸い、1800年代初め、幕府の手によってまとめられた資料があります。 『新編武蔵風土記稿』(多摩関係は文政5年・1822) 『武蔵名勝図会』(文政6年・18 …
江戸時代の村の人口動態
江戸時代の人口動態を示す貴重な資料が大和町史研究にあります。 最低198人、最高262人、おおむね210人代後半~230人を行き来する蔵敷村(減・東大和市)の宗門人別帳による動きです。 (出典 大和町史研究1p55) …
おんじー!?
東大和市の現・狭山地域が後ヶ谷村(うしろがやむら)と呼ばれていた江戸時代の話です。 杉本家に伝わる貴重な古文書に宗門帳があり、当時の家族構成がわかります。 (出典 大和町史研究10p71) 宝永4年(1707) …
豊鹿島神社の要石1
豊鹿島神社から青梅街道を経て芋窪街道を約400メートルほど南に進むと蓮花寺があります。その南隣に、そこだけこんもりとした森になっていて、鳥居があります。 左が蓮花寺で、手前が芋窪街道です。この鳥居の奥にまつられている …
豊鹿島神社の要石2(『武野遊草』)
要石に関しては江戸時代の見聞の記録があります。 寛政7年(1791)9月30日~10月12日にかけて、江戸青山の住人清痩園主人=石子亨が妻の父親である大久保狭南を訪ねて清水村(現・東大和市清水)に来ました。高尾山や …
豊鹿島神社奥の宮
豊鹿島神社の「奥の宮」は現社殿から約400メートルほど北の狭山丘陵の頂きにあります。 現社殿の正面右横から石段を登って境内社の間を進みます。 裏山に続くように鹿島台遺跡があります。 旧石器から縄文時代にかけての遺 …
豊鹿島神社境内二つの碑
境内には、多くの神々の祠と共に次の二つの碑があります。 九頭龍大神碑 (クリックで大) 九頭龍大神碑(九頭龍大神=くずりゆうおおかみ) 昭和7年(1932)4月建立 高さ155センチメートル 芋窪の皆様方による戸 …
豊鹿島神社 境内社(1)
豊鹿島神社の境内には多くの神々がまつられています。 「あ、安産の神だ!」 「商売繁盛だって!」 それぞれ、願いを叶えて下さる事柄が表示されています。 また、古くから境内にまつられた神、明治維新に際してこの地に遷 …
豊鹿島神社 境内社(2)
「どうして、こんなに沢山の神社があるのですか?」 「講がよりどころとした神様は、はっきりしているんですか?」 立て続けに難問ばかりです。ともかく、わかってることを記します。 1紅葉稲荷社 祭神 豊受姫命=とよう …
豊鹿島神社本殿棟札 本物の凄さ
豊鹿島神社の本殿は、社殿の奥に鎮座します。わが市の誇りです。少ない中世建築物の中で、文正元年(1466)十月三日に創建されたことが明確だからです。得がたい室町神社建築物として高く評価され、東京都の有形文化財として指定さ …