軍需工場の変電所
昭和13年、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に戦闘機のエンジンを製作する大きな軍需工場が建設されました。東京瓦斯電気工業株式会社(翌年「日立航空機株式会社」となる)立川工場です。工場の敷地北西部に存在した変電所は、高圧電線で送られてきた電気を、減圧して工場内へと送る重要な施設でした。
生き残った変電所
昭和20年、多摩地域一帯の他の軍需工場と同様に、当時の大和村でも合計10回の空襲があったといわれています。うち2月と4月の計3回の空襲では、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える方が亡くなり、建物のほとんどが破壊されましたが、変電所は奇跡的に生き残りました。もちろん窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。しかし鉄筋コンクリート製の建物本体は、致命的な損傷をうけなかったのです。
戦後、工場はスレートや編み物機の製造など平和産業に転換し、自動車会社との合併や社名変更などを行いながら、平成5年まで操業を続けました。その間、変電所は主要設備機器の更新をしながら、工場へ電気を送り続けていました。しかも、外壁に刻まれた生々しい爆撃の傷跡や内部の一部にも痕跡を残したままの状態で使われていたのです。
戦争を伝える文化財として
平成5年、都立公園の整備のため、変電所を含む工場の敷地の一部を東京都が買い上げることになり、変電施設としての役割を終えました。 しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのまま保存されることになりました。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。 戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市は平成7年10月1日に文化財に指定し、後世に伝えることにしました。