第41回公開講座 「里正日誌の里を訪ねる・雲性寺」NO1

第41回公開講座 「里正日誌の里を訪ねる」
 「雲性寺」を訪ねる
    講師: 砂田さと子先生
雲性寺写真36
朝からの雨の為、前日に早々とコース散策は中止として
コース途中にある「雲性寺」を訪ねるに変更とする

参加者は少ないかなと懸念しましたが、20名の参加となる

雲性寺略歴(砂田先生資料)
 永享11年(1439)堂宇を建設
 天正元年(1573)法印承永が再興
 元禄年間(1688~)地頭石川太郎右衛門(四代忠英)新伽藍整備
 正徳6年(1716)寺の中興伝栄 阿字庚申造立
 享保3年(1718)法印伝栄入寂 五輪塔墓石
 享保10年(1725)向かって右の宝篋印塔 施主雲性寺法印伝翁(伝栄の次)
 享保16年(1731)奈良橋庚申塔造立 願主法印伝翁
 文久4年(1864)自火にて焼失
 昭和5年(1930)観音講「狭山札所巡礼記念」扁額339人記載
 昭和16年(1941)山口仏像院阿弥陀堂を譲り受け本堂とした
 昭和59年(1984)本堂を新築し、旧本堂を観音堂にした

本来の散策コース
晴天の場合
里正日誌の里を訪ねる日陰コース
曇り空の場合
里正日誌の里を訪ねる曇天コース
二つのコースを準備し、当日を迎える予定でしたが
あいにくの雨と、最悪となるも雲性寺で貴重な時間を
過ごすこととなりました

宝篋印塔(右側)
石川家の初代から3代の名前が刻まれる
雲性寺写真32
 裏側
雲性寺写真33
雲性寺写真34
雲性寺写真35

「東大和市史資料編6」の210ページから引用
史資料編6P210
砂田先生の上記資料解説
雲性寺 (裏に地頭石川家の7基の墓石があり、寛政八年(1796)に矩純が墓改め)
山門を入って右手に2基の宝篋印塔があります。向かって右の塔に
書かれている銘が「東大和市史資料編6」の210ページに載っています。

(一段目正面)
寛政五年癸丑十一月建之 (干支から考えて安政ではないと94ページにあり)
多摩郡奈良橋村
(一段目背)
元和九癸亥五月二十五日
延長院殿釈道空居士     (二代石川太郎右衛門忠吉)
慶長五歳庚子九月十五日
唯能院殿釈常称居士     (初代石川太郎右衛門)
 承応三甲午五月二十日
常楽院殿釈同円居士     (三代石川太郎右衛門忠重)
 施主 石川太郎右衛門矩純 (八代 のりずみ 寛政期に存命)
(三代目までの墓石がないので、この塔で供養したものでしょう)

(二段目)には地元の人たちが共に先祖の供養をしています。
本村 宮鍋庄兵衛
当村住 鎌田勝七、岸勘兵衛、高橋平八、森田忠兵衛母、高橋源七、石川定右衞門
江戸芝三田 布屋重兵衛
*史資料編は宮鍋庄平衛であるが、実際は宮鍋庄兵衛が正しい!

石川家のお墓
雲性寺写真11
雲性寺写真9

講義資料から上記写真のお墓内容
里正日誌・石川家&酒井家1

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