東大和市の歴史を次の区分で書いています。
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1大まかな歴史の流れ

 狭山丘陵の誕生から現代までの大まかな歴史の流れをまとめました。
 時代の区分は次の通りです。

  地質、先史、古代、中世、近世、現代

2 略年譜

 各時代の東大和市を中心にした略年表と図
 (地質、先史、古代、中世、近世、現代)

3 時代別・個別の東大和市にかかわる歴史

1 地質
・東大和市は海の中(200~50万年前)

 
 

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  マガキ
村山下貯水池工事中に発見された
 
 
 
・旧石器人は空堀川河畔でキャンプ。
・縄文時代、狭山丘陵の峰々は縄文銀座と云われるくらい賑わった。
 縄文晩期、気候が冷涼となり、人々は移動したか、遺跡はなくなった。
・弥生時代、残念ながら遺跡は見つかっていない。
 
・谷ッに水田を営む集団が定着。
・豊鹿島神社に創建伝承。
 
 
(1)鎌倉時代
 
・狭山丘陵の峰に板碑、浄土教の世界が広まった。板碑の世界。
・人々は丘陵の谷ッに散住、郷村を形成、神社、お寺の創建が伝わる。
 
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中世初期の状況(クリックで大)
 
(2)室町・戦国時代
 
・武蔵野の戦乱の影響を受けながら、村人達は生活の基盤を定着。
・文正元年(1466)豊鹿島神社本殿が建設された。
 奈良橋郷の存在が明らかになった。
・後北条氏の支配下に入り、八王子城と繋がりをもった。
 
 
・徳川家康が関東に入府。直後に直属の家臣が配属されてきた。
・村切りにより、芋窪、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水村が成立した。
・玉川上水・野火止用水の開削。
・村人たちは野火止用水際まで一挙に新田開発を進めた。
 縦に細長い村が成立。
 
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1600年代末までに、野火止用水際まで新田開発 細長い村の成立
(クリックで大)
・年貢は金納で、江戸へ馬で炭や薪を運び農間稼ぎをした。
・幕末、農兵が組織されて訓練をした。
 
(1)明治
・名主、組頭、百姓代に代わって近代の村が生まれた。
・小学校が建設された。
・明治12年(1879)、各村で、村会議員選挙が行われ最初の村会が開かれた。
・明治14年(1881)、自由民権運動が高まった。
・明治17年(1884)、高木村ほか5か村を連合して、連合村が成立する。
・明治45年(1912)、村山貯水池建設きまる。
 
(2)大正
・明治末から昭和初期にかけて、村山貯水池の建設が行われた。
 貴重な水田を持つ古村(162戸)が移転、水没した。
・大正8年(1919)11月1日、大和村になった。
 
(3)昭和
・昭和13年(1938)、無人の南部地域へ、東京ガス電気工業(株)立地、南街成立。
・昭和20年(1945)、軍需工場への爆撃、壊滅、平和産業への転換。
・昭和29年(1954)5月3日、大和町となった。
・昭和31年(1956)2月24日、米軍大和基地が開設された。
・昭和30年代中葉から、公営高層集合住宅団地の建設、周辺の無秩序な住宅地化、人口急増。
・昭和45年(1970)10月1日、東大和市となった。
・高層集合住宅団地の建設。
 
(4)平成
・近い将来、人口減が推定されている。
・新しいまちづくりが課題。
 
 この過程を皆さんと共に追い、語らいの場として行きたいと思います。
 「人と自然が調和した生活文化都市」を目指す東大和市、どのような歴史を積み重ねるのでしょうか。
 古い写真や古文書、是非お寄せ下さるようにお願い致します。
 
 (文責・安島喜一)