大まかな歴史の流れ・略年譜

Ⅰ大まかな歴史の流れ

1 地質
1東大和市は海の中にあった
2箱根や八ヶ岳が噴火した時の灰が積もっている(多摩ローム)
3古い多摩川が運んだ石ころが残されている(芋窪礫層)

2 先史
1旧石器時代
2縄文時代(じょうもんじだい)
3弥生時代(やよいじだい)

3 古代
1古墳時代
2東山道武蔵路・国府・国分寺建立の頃、豊鹿島神社の創建伝承
3多摩・入間の郡界
4平安時代

4 中世

中世1 頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉まで
中世2 南北朝~室町幕府=足利氏~上杉氏
中世3   伊勢宗瑞・氏綱~武蔵制覇
中世4  北条氏康・氏直~徳川家康

東大和市周辺を含めた略年譜中世

5 近世

近世1 江戸時代初期  地頭の来村、村切り、青梅道、鷹場
近世2 玉川上水・野火止用水の開削、細長い村
近世3 生産性の低い新田、農間稼ぎ
近世4 荒れる村
近世5 幕末の緊張

6 現代

現代1明治 1明治の村

現代1明治 2村議会、自由民権、村山貯水池

現代1明治 3行政区分の変更

 

Ⅱ略年譜

1地質

・200~50万年前、東大和市は海の中

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マガキ
村山下貯水池堰堤工事中に発見されたカキ
・200万年前
 アキシマクジラ 約200万年前の化石と推定される。昭島市大神町の多摩川河川敷で、1961年8月発見。
  ほぼ全身の化石、全長約12メートル。(2018年1月19日 朝日)
・ヒノクジラ?
 
・古多摩川が砂利を運んで来て積もった=芋窪礫層
 
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蔵敷熊野神社本殿付近で見られる芋窪礫層
古多摩川が運んで来て、狭山丘陵のもとになっている
 
 ・富士山が噴火する前の小御岳火山の噴火灰が積もった=多摩ローム層=狭山丘陵の上部
 
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芋窪鹿島台に露出してよく見える 多摩ローム
 

2先史

・2万年~1万年前 旧石器人が東大和市域にやってきた。鋭い石器で狭山丘陵や原で狩り。
空堀川のほとりでキャンプ(2万年~1万年)。
・1万年前~2300年前(3000年前説あり)縄文時代、狭山丘陵に家族が家を構え、土器と石器を使い分け、丘陵や原で狩り。
植物の根を掘り、実を採集して生活。中期には狭山丘陵の峰々は縄文銀座と云われるくらい賑わった。

・2300年前(3000年前説あり)弥生時代、米作りが始まり、集団で村を作る。
残念ながら東大和市域内では遺跡は見つかっていない。
所沢市では大きな集落をつくっている。

3古代

・谷ッに水田を営む集団が定着。

・707(慶雲4)、豊鹿島神社創建の伝承。
・716(宝亀2)、高麗郡建郡。

・725~750年代、武蔵国府成立。
・755(天平勝宝7)防人交代 防人の歌詠まれる。

・750年代、武蔵国分寺建立。
・758(天平宝字2)、新羅郡建郡。
・833(天長10)、多摩・入間郡界に悲田処を置く。
・935(承平5)、将門の乱
・この頃、村山党貫首が狭山丘陵に定着か?

4中世(主に東大和市に関する出来事)

円乗院賢誉墓碑

1083(永禄3)~1087年(完治元年)後三年の役 村山貯水池に沈んだ宅部に、鎌倉権五郎景正の家臣寺島小重郎が「御霊神社」を創建したとの伝承がある。
1112(天永3) 「三光院開山円長没す」『新編武蔵風土記稿』
1159(平治元) 「円乗院開山法印賢誉入寂」『新編武蔵風土記稿』
1192(建久3)7月、頼朝、征夷大将軍就任=鎌倉幕府開設。
1214(健保2)6月吉日、東大和市氷川神社(現・清水神社)創建伝承 石井美作の名あり 棟札の 写しあり(『狭山之栞』 p52)
1221(承久3)承久の乱、・金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米など村山党の武士ほとんどが北条方として参戦した。
1283(弘安6) 「弘安六年三月銘板碑」五十嵐墓地にあった。但し、自転車で持ち去られた。東大和市最古。(『五十嵐考』)。
1290(正応3) 「正応三年十一月銘板碑」五十嵐墓地にあった(『五十嵐考』)。

永仁2年(1294)板碑

1294(永仁2)現存東大和市最古の板碑(東大和緑地出土)、郷土博物館にて展示。狭山丘陵の峰に浄土教の世界が広まった。
・丘陵の谷ッに散住、郷村を形成、神社、お寺の創建が伝わる。

1333(元弘3)元弘の変
・5月8日、新田義貞が新田庄生品神社(群馬県太田市)で、後醍醐天皇からの討幕の綸旨(りんじ)を読み上げ一族150余騎で挙兵、鎌倉街道上道を南下
・5月11日~12日、小手指ヶ原・久米川合戦
・5月22日、鎌倉を陥す⇒鎌倉幕府滅亡。◎将軍塚 元弘の板碑(東村山市) 義貞に従軍してきた上野国の武士飽間一族で戦死した者を供養する。
1336(建武3)東大和市豊鹿島神社に建武3年(1336)の銘がある大鐘が奉納されていたとの記録がある。

三光院

1357(正平 12) 年 (延文2)年
・6月1日、東大和市三光院開山快光法印入寂とする、寺伝。開基の石井美作は延文4年(1359)に没、寺伝。
・『新編武蔵風土記稿』では、天永3年(1112)5月3日、東大和市「三光院開 山円長没す」とする。

1368(正平23 )年 (応安元)年
◎貞治7年4月19日銘板碑 南無阿弥陀仏 狭山霊性庵にありとの記録が『新編武蔵風土記稿』、『狭山之栞』p32
この年になっても「貞治7年」の年号を使用していることに注意
◎普済寺で経典を出版した際の助縁者として「宅部美作入道貞阿」「高木二郎左衛門入道」が記載されている(『多摩のあゆみ』118 p45)

応永の五輪塔

1374 (文中3)年(応安7)年 村山党解体 一揆に再編した時代
・8月9日、仙波信綱が一族の某と村山郷(武蔵村山市・瑞穂町)内の地頭職をめぐって争い、勝訴している。 (『東村山市史上』p436 資料編古代・ 中世p548)(『川越市史第二巻中世編』p299)
◎武蔵村山市・瑞穂町付近の一部を、仙波氏が地頭として統治した事を示す。東大和市域はどうなっていたのか?

1403(応永10)年
・東大和市蔵敷に所在する五輪塔に応永10年銘が確認されている。『生活文化財調査』 p90。

1407(応永14)年

正福寺地蔵堂(東村山市)

・東村山市正福寺地蔵堂が創建された。弘安元年(1278)、北条時宗(時頼)創建の伝承を持つ

1417(応永24)年 上杉禅秀の乱終結
◎1月20日、発給の「関東管領上杉憲基施行状」に、「宅部下総入道」が「立河駿河入道」の庶子「立河雅楽助」 に「土渕郷田畠・在家・河原等」を「還補」するのに立ち会っていることがわかる(『多摩のあゆみ』118 p64~79)(『立川氏館跡』p336)
◎立河雅楽助に還補された土地は日野市栄町地区に存在したと想定されている。(『多摩のあゆみ』118 p64~79)

現・雲性寺本堂

1439(永享11)年 永享の乱終息
・東大和市雲性寺堂宇建設との伝承あり。天正元(1573)年、法印承永が再興、元禄年間(1688~1703)に、地頭石川太郎左衛門が新伽藍を整備している
・2月3日銘板碑 東大和市雲性寺

1457(長禄元)年
・4月18日、太田道灌築江戸城完成、居城とする。同年、河越城(上杉氏)、岩付城(道真)完成。

1466(文正元)年 (寛正7年2月28日に文政に改元)

豊鹿島神社本殿

・10月3日、豊鹿島神社棟札に墨書銘あり、「筆者 権律師□儀」 都内最古の室町建築物。
◎棟札に大旦那・源朝臣憲光、武州多摩郡上奈良橋郷と記されている。

1550(天文19)年
・11月5日、豊鹿島神社修理される。 修理棟札に、武州多東郡上奈良橋郷 大旦那「工藤下総入道」と記載されている。
前年、1549(天文18)年4月14日、巨大地震発生。その影響か?

現・熊野神社(蔵敷)

1558(永禄元)年
・蔵敷熊野神社創建  内野家の伝えによると蔵敷1ー1367に鎮座する巌島神社が永禄年間(1558~1572)前後の創立といわれるところから、同一時期に創建されたものと推測される。
しかし、小島蔵之助氏方の古文書によれば、創建は天文2年(1533)とあり、社殿の造営は寛永 6年(1629)11月と記されている。

1559(永禄 2)年
・2月12日、北条氏康「小田原衆所領役帳」を制定。
・北条氏が支配下の所領を書き上げた。中に、「他国衆」として三田弾正綱 定、山口平六などの名が見える。
・山口平六 四拾貫文 山口内 大かね(鐘) 藤沢分 小野分(北野か?)とあり、地域が限定されている。東大和市域は氏照の支配下にあったことが推定される。

1560(永禄 3)年
・3月、三光院梵鐘作られる。
梵鐘は永禄三庚申三月建立なるを正徳二壬辰年四月鋳替安永九年九月 古鐘は峯薬師へ売渡し現存のものは新鋳なり。惣高龍頭迄四尺六寸口径三 尺五寸。(『狭山之栞』)

武蔵六所明神(現・大国魂神社)

1561(永禄 4)年
・2月、長尾景虎、厩橋城(前橋市)から小田原城に向けて出陣、帰途、武州六所明神に参詣との記録あり。「謙信公御年譜」
・7月、北条氏、三田綱定を滅亡させる。支配領域は氏照が由井領に加えて勝沼領を領有。(『黒田北 条一族』p156)

1564(永禄 7)年
・5月23日、氏照が勝沼城主三田綱秀の旧臣三田、師岡の二人に朱印状を送り、三田氏の旧臣41人に対し清戸の番所勤務を命じている。午前8時前に箱根ヶ崎に集まり、清戸番所の警備に付けとの命令である。

1569(永禄12)年

滝山城跡

・9月、武田信玄、大軍をもって信濃を経て碓氷峠から上野に入り、鉢形城、滝山城を攻め(拝島大師に陣)、ついで小田原城を攻む。
・10月1日、廿里(とどり)で合戦、10月2日、滝山城攻め。3日には小田原に向かう。(『よみがえる滝山城』p29~30)
◎清水村氷川神社御神体絵馬
神体とするもの絵馬の如にして、表は素盞烏尊、稲田姫、猿田彦、左右に貌狛(ぼうはく)を彩色にて写したれども、剥落してかすかに残れり、永禄十二年 (1569)の裏書あり、圖下に載す、(『新武』)
◎蔵敷厳島神社創建伝承あり(内野家) 小島家では天正6年(1588)とする。

1573(天正元)年
・東大和市雲性寺を法印承永が再興、元禄年間(1688~1703)に、地頭石川太郎左衛門が新伽藍を整備との記録あり。
永享11年(1439)堂宇建設の伝承あり。

豊鹿島神社改修棟札
細野主計殿 番丈衆十人御力合と墨書

1576 (天正4)年
◎・鹿島神社棟札 武州多東郡上奈良橋郷  大旦那と思われる位置に 細野主計殿 番丈衆十人御力合と墨書されている。

1582(天正10)年
・3月11日、武田勝頼が信長に攻められ天目山の戦いで敗れ、武田氏滅亡
◎このことを契機として、武蔵村山市には武田家遺臣の来応が伝承される 長円寺縁起=武田家旧臣波多野氏が再興
・4月12日、甲斐から落ち延びてきた武田勝頼の家臣・加藤丹後守景忠と夫人、一族が箱根ヶ崎円福寺で自害、位牌、墓石が残されている。
墓石には4月11日討ち死にしたことを記す。(『武蔵村山市史』上p689)
・6月2日、本能寺の変、織田信長没。
・12月27日、北条氏照が武田の家臣宮谷衆の小坂新兵衛に「村山の内立川分」の地を与える朱印状を出している。

1584(天正12)年

現・阿豆佐味天神社(瑞穂町)

・3月13日、村山土佐守・村山雅楽助が阿豆佐美天神社を再修する(『武蔵村山市史』上p701)
1590(天正18)年
・1月、氏照ら小田原城に籠城
・4月、秀吉、小田原城を取り囲む。
・4月27日 江戸城開城
・5月19日 山口平内、武州岩付城に籠城し、豊臣方浅野長政らに攻められて討死す。(古戦録)
・5月22日 岩付城開城
・5月 河越城開城
・6月14日 鉢形城開城

八王子城

・6月23日 八王子城開城 24日 前田利家八王子城下に禁制 27日 木村常陸介 八王子城の降人を在地に還住させる
・8月1日、徳川家康江戸城に入る
◎杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没)、当代天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川の領となる。 この改革事務一切に関与したのである。(『代々のかがみ』)
1591(天正19)年
・5月、酒井実明が芋窪村と高木村450石を給せられる
・5月14日、秀吉、家康に鶴岡八幡宮の造営を命ずる。(『松尾 中世都市 鎌倉の風景』p74)
・7月、江戸城修築開始

新しい名前の村が出来た
村切図

・11月、清水村氷川神社に家康から5石の領地が与えられた。字中田の田4枚分、二代秀忠、三代家光、八代吉宗の朱印三通が現存
・11月、清水村三光院に家康から3石の領地が与えられた。(『新武』)
1592(天正20)年 (文禄元)年
・2月、奈良橋村(蔵敷村を含む)が石川太郎右衛門の采池に属す (明治13年蔵敷村誌 『町史研究』4p54)
・2月25日、芋窪村、奈良橋村、高木村を旗本石川太郎右衛門、酒井極介(極之助)、同郷蔵の知行分けの文書あり。(『所沢市史史料』 p628)

周辺を含めた出来事は 略年譜 中世 に記します。

 

5近世(安土桃山、江戸時代)

・徳川家康が関東に入府。直後に直属家臣が配属されてきた。

 ・村切りによる近世の村が成立。
 ・玉川上水・野火止用水の開削。
  武蔵野台地は新田開発による畑作地と激変した。
 ・村人たちは野火止用水際まで一挙に新田開発を進めた。
  縦に細長い村が成立。
 
 
狭山丘陵の麓を親村として、1600年代末までには野火止用水際まで新田開発をして細長い村ができた(クリックで大)

狭山丘陵の麓を親村として、1600年代末までには野火止用水際まで新田開発をして細長い村ができた(クリックで大)

6現代(明治~平成)

(1)明治

 ・名主、組頭、百姓代に代わって近代の村が生まれた。

 ・明治末から昭和初期にかけて、村山貯水池の建設が行われた。

  貴重な水田を持つ古村が移転、水没した。

(2)大正

・大正4年(1915)村山貯水池敷地内の住民が移動を開始
・大正8年(1919)11月1日 大和村となる。(人口5.190人 戸数770戸)

(3)昭和

・昭和2年(1927)3月 村山貯水池工事完成
・昭和3年(1928) 多摩湖線開通(武蔵野鉄道多摩湖線)
・昭和8年(1933)10月1日 農村経済更生指定村となる

・昭和13年(1938)無人の南部地域へ、東京ガス電気工業(株)立地、南街成立。
・昭和14年(1939)東京瓦斯電気工業(株)が日立製作所と合併して日立航空機(株)を設立、立川工場となる
昭和19(1944)年5月1日、日立航空機(株)専用鉄道が開通・運用開始(後に、西武拝島線のもととなる)

 ・昭和20年(1945)工場への爆撃、壊滅、平和産業への転換。
 ・昭和31年(1956)2月24日、米軍大和基地が開設された。

 ・昭和30年代中葉から、公営高層集合住宅団地の建設、周辺の住宅地化、人口急増。

(4)平成

 
 ・平成の高層集合住宅団地の建設。
 ・近い将来、人口減が推定されている。
 
 この過程を皆さんと共に追い、語らいの場として行きたいと思います。
 
 
 
 「人と自然が調和した生活文化都市」を目指す東大和市、どのような歴史を積み重ねるのでしょうか。
 古い写真や古文書、是非お寄せ下さるようにお願い致します。
 
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