いがみ合い

今は絶滅危惧種の黒メダカ

昭和の時代には、黒メダカは日本各地の小川や田んぼ
にいました。昭和50年代から環境の変化により生息
に適した水の流れが、緩やかできれいな小川がなくな
り、
また農薬を撒いた田んぼが増えて住みにくくなっ
たた
め生息数が減少しました。
2003年(平成15年)環境省は、黒メダカを絶滅危惧
に指定しました。

戦時中に爆弾が投下されたとき消火のために各家庭に
ひとつづつ備え付けていたのがコンクリト作りの横
1.2m、深さ1.0mほどの四角な防火用水桶であった。
終戦となってこの防火用水桶は不要となりボーフラ
が湧くからということで鮒やメダカを飼っていた。

日曜日は友達と隣の町までメダカをとりに出かけた。
どうしてか我が町には、メダカやざりがにが小川や
田んぼにはいなかった。そのため、山を越えて隣町
へ行かないとメダカはとれなかった。
バケツ、タモ網、竹箕ざるをもって隣町の田んぼに
水を引き込む水路を目指して出かける。

隣町とは、子ども同士でもなぜかいがみ合っていた。
どうしてか。
理由は分からなかった。
隣町の子どもを「がんきー」
と呼んでいた。
どうしてそう呼んでいたのかもよくわ
からない。

メダカをとるため小川や田んぼへの水路、ときには
田んぼの畦に足を踏み入れることもあった。
周りに
人がいない時をねらって朝早く出かけた。
時には、バケツにメダカをいっぱいとって帰ろうと
していた矢先、「がんきー」に見つけられてバケツ
やざるなど全てを取り上げられたこともあった。

メダカとりを続けた結果、防火用水桶には、メダカが
水面に浮かぶとちりめんじゃこの天日干しのように
埋めつくされていた。
そんなある日の朝、防火用を覗いて呆然とした。
メダカが、全て白い腹を見せて浮かんでいた。既に、
腐敗の臭いさえしていた。
友は、「がんきー」が毒を入れたんだと言う。なん
の証拠もないし、理由も明確ではない。

それから半世紀の歳月が流れた。故郷を後にして昭和
の激流に身を投じ、世の中の流れに流されていった。
会社では働き人間として朝は早くからすし詰め電車で
2時間、渋谷、田町、大手町、銀座、・・・・・・・
六本木、立川と40年間、真面目に働いた。

故郷は、西三河の海村である。

 

 

 

 

 


姉の葬儀に故郷に帰った。通夜が済んで甥(姉の子

も)が、叔父さんの小さい頃のことを知ってる飲み

の親父のところへ案内しますとつれていってくれた。

その親父の名前を聞いても顔をさえ思い出せなかった。
お店はカウンターに5~6人が掛ければいっぱいとなる
小さな飲み屋だった。
酒の肴は、海が近いこともあって近海の魚、鰺、ヒラ
メ、蟹、エビと新鮮なつまみがカウンターに並んだ。
酒がすすむにつれて子どもの頃の思い出が、飲み屋の
親父と口裏を会わせたように次から次へと共通の話が
出てきた。その話の殆どはいたずらや遊び友達の悪口
等であった。


そんな他愛のない話から隣町の「がんきー」の話にな
った。お互いにいがみ合っているのはどうしてなんだ
ろう。メダカとりの話もでた。
すると、飲み屋の親父は、自信ありげに明確な回答を
述べたのである。
それは、・・

戦国時代の駿河及び遠江の守護大名、今川義元が、三
河や尾張の一部まで領土を拡げるために攻め入ってき
た時に山を一つ隔てた隣町と敵対となったことがあっ
た。それ以来互いにいがみ合うようになった。とのこ
とであった。
その後、今川義元は、桶狭間の戦いで織田信長に敗れ
た。


その話を聞いたときすぐ納得する余裕もなく酔いも回
って400年も昔のいがみ合いが今以て受け継がれて
いることに疑問は解けずにいた。

心地よい酔いと子どもの頃の懐かしい思い出を飲み屋
の親父と分かち合ったような気持ちになり甥の家に泊
まっ
た。

翌日、葬儀が済んで甥が、最寄りの私鉄の駅まで車で
送ってくれた。甥は、飲み屋の親父はこの土地の歴
に詳しく町の歴史の編纂にも携わっていると言って

た。
今川義元の話は本当なんだろうか?話を面白くしよう
と飲み屋の親父の企みかもと思いながら新幹線に揺ら
れてうとうとと眠っていた。

その後、よくよく考えると、小学校までは、隣町とは別の学校
へ通うが、中学校は、同じ学校に通う。当然、「がんきー」とも
同じクラスになることもある。いつまでもいがみ合っているわ
けにはいかない。いつの間にか仲良しとなりいがみ合いは消
てしまっていた。

大和村が成立したのは、大正8年(1919年)11月のことである。
芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村の6村を
あわせて「大和村」が誕生した。
明治期には、頑として合併を拒絶していた村々が、互いに融和
して「大きく和する」ことを目指して「大和村」と命名された。
合併が遅れたのは、各村の独自性とか独立心が強かったと言わ
れている。独自性とか独立心とは一体なにか。特徴的な個性を
もっていたのか。確たる信念とか信仰とかに裏打ちされた思想
を持っていたのか。あるいは、単ある利害関係が左右してのこ
となのか。農産物の収穫量に差があったとか。
まさかいがみ合いでは?
100年前のことをゲスな推量をすることは禁物である。

Follow me!

前の記事

かかりつけ医

次の記事

平和市民の集い