回顧半世紀

50年を顧みて
昭和40年(1965)に当時の北多摩郡大和町の町民に仲間入りしました。
5年後昭和45年(1970)10月1日大和町は、市制施行し市名を東大和市
としました。

ロナウイールスにより外出自粛。この際、ほぼ市民となった時期と一致することから50年を振り返って
「東大和市史」を読んでみようと江戸時代以降を勉強してみました。

 

東大和は、大和村から江戸幕府に近いこと、大和町もそして東大和市も政治、
経済文化の中心の首都に近いことから様々な面で国の動きに左右され、と
きには翻弄される部分も多くありました。

東大和市はどんな都市

”ゆったり日和” 緑と水に恵まれた「人と自然が調和した生活文化都市
東大和」は、ゆた
かで暮らしやすい生活と心豊かで美的感性を持つ文化
を育む都市(街)を目指している.

生活文化都市の将来像
あんしん・・・・安全でやさしい都市
うるおい・・・・緑と水の都市
いきいき・・・・活発な交流のある都市
やすらぎ・・・・良好な住環境が整った都市

(東大和都市マスタープラン(改訂)都市づくりの将来像から)
少々欠けているのは、[文化]である。文化らしいものが不足している。

思わぬ発見
大和町も高度経済成長に乗った。
昭和31年(1956)首都圏整備法が制定された。
東京都は、首都圏整備計画を立てた。
大和町も都市化の波に乗って住宅の建設ラッシュが押し寄せた。
しかし、交通(鉄道)に恵まれない不便な町であった。

夢が幻となった武州鉄道

昭和34年(1959)武州鉄道が三鷹~青梅~秩父を走る鉄道敷設計画が
あった。
大和町の中心部に住宅団地が出来る計画に町は鉄道が町を走ることをチャ
ンスにして用地買収に協力をした。
昭和34年12月15日発行大和町広報に「武州鉄道の用地買収が進められて
いること、
そして・・・鉄道の敷設に愛郷の情熱を注いできた大和町民の長い念願叶
って・・」と期待の高かったことが察せられます。


鉄道建設計画崩壊
昭和36年(1961)7月鉄道免許が交付間もなく土地買収や鉄道免許にか
らむ贈収賄事件により鉄道建設は頓挫、崩壊した。
武州鉄道関連会社が取得した土地は、東京都が買い上げ、公共性の高い施設
建設を条件に自治体に払い下げられたり、東京都住宅供給公社が分譲地とし
て売り出しました。

大和町町民へ一歩
杉並区のアパート6畳一間の暮らしはいかにもみすぼらしく土地付建物を
希望していたところ分譲地募集が新聞に載っていた。東京都の分譲でもあ
り応募してみた。(東京都住宅供給公社が分譲地を募集)

20倍の競争に打ち勝ち当選した。金策には頭が痛かった。
頼るところは親しかいない。
当時、土地は、坪約2万円70坪の土地は130万円、その半分を親の負担に
頼った。北多摩郡大和町字奈良橋に1階建2DKの小屋が生活拠点となった。
立川基地から飛び立った米軍の飛行機が、頭上を通過する。テレビの音が
聞こえない。冬は、砂漠同様に砂ぼこりが舞い上がり窓枠に積もった。
昭和39年(1964)造成が終わり土地の引き渡し後2年以内に建物を建て
る条件となっていた。昭和40年(1965)生まれたばかりの息子をつれ
て大和町に引っ越した。

昭和45年(1970)市制施行「東大和市」に
自宅近くに中央公民館、中央図書館そして市役所が建設。
昭和53年(1978)町名地番整理により奈良橋から中央に

通勤地獄を乗り切る
28歳の働き蜂は、朝早くから都内の職場にラッシュの中を通勤した。
渋谷、田町、大手町、銀座、大手町、立川・・・・2~3年で異動して夜
遅くまで働き続け40年間、その間、大和町そして東大和市のことすっか
り忘れていた。

平成10年(1998)多摩都市モノレール上北台~立川北間開通

地域に回帰
会社人間から解放されて趣味を楽しむことを考え60歳をすぎて公民館を
利用するようになり地域(市民)とのお付き合いが増えていった。アマ
チュア無線、菊作り、水墨画と楽しみを増やしていった。
そしてやがて文化協会活動に携わり地域とのつながりは、なお広く、深く
なっていった。

今は、楽しいが刺激のあるブログづくりにはまっている。なにか地域への
展開が役立つきっかけと楽しさを求めて老後の糧にしている。

 

資料として「東大和市史」(平成12年発行 編集 東大和市史編さん委員会
発行 東大和市 「幻の武州鉄道」(平成17年発行 東大和交通史研究の会
監修北村 拓)を参考とさせていただきました。

 

 

 

 

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