わたしの忠臣蔵

播州赤穂と三河吉良
ころは元禄14年春3月14日、ところは殿中松の廊下
・・・
で始まる浪曲の一節である。

昭和40年(1965年)東大和市(当時、北多摩郡大和町)
住民となった。

勤め先は、港区高輪で泉岳寺の近くであった。昼休みなど
に泉岳寺をよく訪ねた。お線香の煙が絶えることなく墓石
煤で真っ黒になっていた。

清廉にして短気、わがままで学究肌、しかも持病のつかえ
(胸や喉のつかえ?)があり朝廷の使者を接待という重責
でストレスが最高潮となっていた。浅野内匠頭長矩である。

片や、欲深で横柄な態度で物をせびる高家肝煎(こうけきも
いり)、官位では上位にあり、朝廷からの使者へのおもて
なしの指南役として態度がデカカッタ。吉良上野介である。

元禄14年3月14日(1701年)午前11時半頃吉良上野介が、
江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松の廊下
を歩いてい
たところ浅野内匠頭長矩が、上野介の後ろから
”この間の遺恨覚え
ているか”と声をかけ刀で肩先を切りつ
け更に上野介が振り返った
ところを眉の上に切りつけた。

第五代将軍徳川綱吉は、激怒、浅野内匠頭は、即切腹。
浅野家は所領の
播州赤穂を没収の上、改易された。
しかし、吉良上野介にお咎めはなかった。

 

そして、元禄15年12月14日(1703年)元筆頭家老、大石内
蔵助を中心に旧家臣四十七士
(赤穂浪士)は吉良邸に侵入
し吉良上野介を討ち取った。

幕府は、赤穂浪士討ち入りを「徒党」を組んで吉良邸に「
押し込み」を働いた。

とし「仇討ち」とは認めなかった。

赤穂は、坂越湾(さこしわん)に面し、原生樹林は国の天然
記念物に指定されてる生島を望む
風光明媚で自然豊かな土地
であり、また、国史跡赤穂城や赤穂義士ゆかりの歴史の町で
もある。

一方、三河吉良町は、平成27年(2015年)12月に西尾市に
合併した。
吉良も赤穂同様三河湾に面し白砂青松の温暖な気候のリゾー
ト地である。

いずれも海岸があり当時は塩を作っていた。お互いの塩の製
法や販路での
対立があったとも言われている。

義兄弟との縁

私の妻の妹の亭主は、播州の出身、私は、三河の出身である。
正月には、妻の実家に家族が集まる。暮れのテレビや映画
で忠臣蔵が放映
された。私は、義弟と顔を合せるときは忠
臣蔵の話は余りしたくない。

ところが、妻の父親は、酒が入ると浪花節を唸る。集まっ
た客に聞かせたいので
ある。お得意の忠臣蔵である。家族
達は、又かと聞きたがらない。

武士(もののふ)の刃(やいば)を
一度(ひとたび)び抜くときは
死ぬも生きるも命がけ、
千代田のお城の奥深き
ああ松の廊下 花に恨みの風が吹く

歌謡浪曲「ああ松の廊下」の一節である。

吉良になんのお咎めがないのはおかしい。
狡猾で高家という官位を利用して若い浅野に賄賂を要求し
たり
饗応の手はずを教えなかったりいじわるをしたいじめ
である。

この度重なるいじめに業を煮やした浅野は堪忍袋の緒が切
れて
刃傷に及ばざるを得なかった。
主君の切腹、赤穂藩の改易という幕府の処罰に家臣が主君
に代
わって吉良を討った「仇討ち」である。
播州の言い分である。

喧嘩両成敗というが口論もせず一方的に浅野が後ろから切
りつけ
吉良は、抜刀もせず応戦もせずに逃げようとした。
吉良に「遺恨」があったというがその内容が明確でない。
遺恨があるなら幕府に申し開きすべきである。
「仇討ち」と言うが元来「仇討ち」は、親や主君が殺され
た家族
や家臣が殺した相手を討ち取ることを言う。
三河の言い分である。

以上が義兄弟の言い分姿勢である。

義弟は、浅野内匠頭の家臣、小野寺十内の末裔に当たると
言っている。

私は、吉良上野介とは、先祖も何の縁のゆかりもないと思う。

昔の話は、さておいて今では、赤穂を初め義士祭りが、全国
のあちこち
で行なわれ、東京港区泉岳寺、京都山科、大阪天
王子など赤穂浪士ゆかり
の地で、12月14日「義士行列」な
どで賑わっている。

テレビでは、NHKの大河ドラマを初め各放送局が「忠臣蔵及
び関連する」
番組を年末の出し物として定番となっている。

どちらに見方するわけでもないが私は、南春夫の歌謡浪曲「俵
星玄蕃」(今は三山ひろしが歌っている)が
好きでよく歌って
いる。

槍は錆びても この名は錆びぬ
男玄蕃の 心意気
赤穂浪士の かげとなり
尽くす誠は 槍一筋に
香る誉れの 元禄桜

 

 

 

 

Follow me!

前の記事

新スーパー開店

次の記事

同窓会名簿